主はひとり

話を戻すと、ローカル会衆ごとに裁量権がある、のは悪くないです。

昔、少しだけ付き合いがあった別のキリスト者に、うろ覚えですが 「Church of Jesus Christ」 みたいなシンプルな名称の教派?の人がいました。

名称としては同じものを各地で使っていても、集会や布教の頻度・手法は完全に地元教会の裁量で、他の教会が決めたことには口を出さない、という了解があるそうです。

地元ルールも最低限のことのみ、全会一致で決まったことだけを会則とし、それ以外は同じ教会員同士でも裁かない、口を出さない、というシステムらしい。

そういうやり方に戻ればいいのにね。

今ではスラックスのタイトさ加減までトウチタイの好みで裁かれる。

使徒15章の臨時エルサレム会議のみにこだわるが、ユダヤ教への改宗を経由しない非ユダヤ人クリスチャンには割礼義務を課さない、というシリア教会側の方針に、エルサレム教会は「口を挟みませんよ」(ユダヤ人教会側は実践を続ける)という合意がなされただけです。


「汝らの主は一人、キリストにして、汝らはみな兄弟なり」


キリスト教権威の支配に幻滅した、当時の聖書研究者にグッときた言葉らしいです。中世に作られたKJVのエホバ表記にこだわってそれが真理だ、とはラッセルも主張していない。


汝らの主はただ一人、キリストのみ。


このキリスト教の原点に立ち返ろうとした、のはいいんですが。

現在のトウチタイ、シブ、ジュンカイ、ベテル、あれこれガッコウ、カイタク、などのトッケン乱発ヒエラルキー支配を見て 「組織は前進している、汝らはみな兄弟なり」 と今でも本気で言い張れる人間は、何を崇めているのだろう。

聖書研究会

組織賛美本のお勉強会が始まっているようですが、も塔は当初、トップダウンで画一化されたプログロムではなく(今よりは)自由な聖書研究会を勧めていたらしい。


「各自が聖書と紙と鉛筆を持参し、用語索引などをできる限り活用しよう。論題を選び、その点を理解できるよう霊の導きを求めてから、読み、考え、聖句と聖句を比べよう。そうすれば必ずや真理に導かれるだろう」(大昔の聖書研究者時代のも塔)


手法としてはかなり特殊で限定的ですが、そこそこ自由な勉強会を勧めてはいます。

どこが限定的かというと、「論題」を先に決めてしまい、それと関係ありそうな語句を用語索引で調べ、その語句が使われている細切れ聖句をあちこちから引っ張り出して比較して、「統一した定義」を話し合いで決める、というやり方です。

聖書は辞書じゃないんだから、時代ごとに、著者ごとに書かれたあっちこっちの書簡から同じ語句らしきものを引っ張り出したころで、しかも旧約(ヘブル語)と新約(ギリシャ語)をまたいでも、それがすべて同じ定義で使われている、という保証はどこにもないし、逆に無理がありすぎる。


100年以上前の原理主義者の手法だから、仕方ないんですが。


JWはいまだに、WT解釈に合わせて都合よく使われる字引きのような感覚しか持ち合わせていないので、聖書をまとめて読むことに慣れていない。読んでも何も感じない、分からない。WT解釈とは違う視点や発想を持ってはいけない、という鍼灸のようなリミッターが脳に刺さっている。

背教者

背教者への強烈な嫌悪。

それは原始クリスチャンから始まり、中世あたりでピークを迎える。

宗教改革が背教で終わらず、プロテスタント諸派はキリスト教として認知されている。

背教だの異端だの騒ぐ時代錯誤な人たちは、寛容になった現代ではもはや化石。

JW含む三大異端?も、特殊なキリスト教系団体として一定規模で存続すると思われる。

そのJWがこの現代で、自らの「背教者」に向ける嫌悪は強烈なものがあります。

何が背教か、とは、何を正統とするか、で決まる。キリスト教の伝統教義を正統とすればJWは背教者になり、JW解釈を正統とすれば、棄教しても信仰を持ち続ける人たちが背教者になる。

信仰そのものを捨てれば、援助対象となる「弱い人」とみなしてくれるようですが。

背教者への激しい憎悪で知られるのは、エイレナイオスです。

新約四福音書の確立に最も貢献した人物とされている。

『イレナエウス,アレクサンドリアのクレメンス,およびテルトゥリアヌスなどの人々は,クリスチャンの聖書を構成する文書をヘブライ語聖書と同等の権威を持つ文書として認めていたことが知られています』 (WT洞察)

新約書簡の正典性を語るときに、WT文献でも真っ先に名前が挙がる。彼は、地に四方があるように、正統なる福音書の数は「四」でなければならず、それ以上でもそれ以下でもあってはならない、と強く主張した。

その信念は師のポリュカルポス譲りで、彼の師は、ルカのみを正統な福音書として認めたマルキオンを 「サタンの惣領め!」 と罵ったという。

彼らが最も重要な神学とみなしたのが「ヨハネ」で、その福音書と同じく「主の愛された弟子」によって書かれたと彼らが伝統的にみなすヨハネ第二の手紙は、この教え=正統派のキリスト論を携えてこない者とは 「あいさつさえ交わすな」 と厳命する。

正統派原始クリスチャンは、彼らが背教とみなす教えを信じる者たちとは、語り合うこと、わずかな接触を持つことさえ、病的な恐れを抱いていた。原始クリスチャン、というより原始的なクリスチャンに倣うJWは、それと同じことを狭い世界でやっている。

イエスを信じていても、そのイエスが1914年にキングに任命された、そしてJWトウチタイのみを「奴隷」として全権委任した、という解釈が 「ちょっと違うんじゃないか?」 と言い始める者は 「まむしらの子孫よ!」 と背教者の烙印を押され、血を分けた家族でも強烈な忌避をくらう。

彼らもある程度、成功している。

教育水準の低い途上国で何も知らない新参者を獲得し、先進国での物言わぬ静かな脱落者は後を絶たないが、まとまった分派だけは絶対に作らせない、という点では。

諸行無常

といっても「行い」に対する直接の報いを期待したり、期待させたりすることが絶対に間違っている、とも言い切れません。何かを絶対視するなら、二元論のループに取り込まれます。

すると、絶対視は「絶対によくない」のかな。

それも、無限ループに取り込まれます。

難しいですね。

話を戻すと、功徳に対するアンチテーゼが無功徳です。

「信仰」か「業」か。

そのバランスを取ろうとしたのがルターの信仰義認です。

キリストは「神」か「人」か。創造か被造か。

その底知れぬ溝が生む二極を和解させる、神性と人性のヒュポスタシス結合。

という定式でバランスを取ったのが三位一体で、カルケドン信条で確立した。

しかしバランス(調和)を生むはずのものが、やがて絶対視され、再び対立を生む。

その繰り返しで、これからも続いてゆくでしょう。

男と女の記事で書いた相補性とは、量子現象から生まれた言葉で、0か1かを決定できない不確定性が、どうやら否定できない(この)宇宙の真理のようです。

ということで、歴史の事実が示すように善悪の白黒決着はありません。

願望としては聖書にも表現されていますが。

二極の狭間で相克しながら、反発し合い、時に混ざり合い、変容してゆく。


JWも、絶対視された教会権威や伝統教義を否定したはずが、自分たちの組織とそのささいな業績、そしてお粗末な解釈への賛美と絶対視を要求するようになる。

ゴミ拾いのボランティアを末端信者にさせて、それすら自賛するネタにしてしまう。


諸行無常の響きあり

おごれる宗教団体も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし


真理ですね。

主の業②

自分はこれだけのことをやってきた、と業績を枚挙してどんな報いがあるか、と尋ねた武帝に達磨大師は一言、「何の功徳もない」と答えたそうです。

それが無功徳らしい。


『その日には、多くの者がわたしに向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」 と言うでしょう。しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れ去れ、と』

↑業績そのものは関係ない、またはその見返りとしての「報い」ではない


『その時、義なる者たちはこう答えるでしょう。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり、渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり、裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか」。すると、王は答えて言うでしょう、「あなた方に真実に言いますが、これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは、それだけわたしに対してしたのです」』

↑しかし当人には全くその自覚(打算)がない


『わたしの愛する兄弟たち、あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから、堅く立って、動かされることなく、主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい』

↑無駄かどうかは人には分からない、信仰において為される言動はすべて「主の業」である


東寄りに解釈するとこんな感じです。


無功徳(無利益)どころか、御利益成果主義ビジネス宗教に成り果てたJW教。

信者は毎日、「楽園に入れるかどうか」「永遠の命やえほば様の是認を失わないかどうか」と病的に恐れながら、「ふさわしいかどうか」で自分と他信者の言動を裁いて生きている。

上昇志向信者は「どうやったらさらなるトッケンが得られるか」で心を病ませる。

まあ本人たちがそれでいいならがんばってね、としかいいようがないが。
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