何人死んだ?

最近、国会で問題になったヤジです。

JW組織にすがりつく人にも、同じような心理が働いています。

トップの統治体が伝統的にそう教育しているからです。

ジャラズ氏の名言、「2、3人の犠牲がかわいそうだと思わないこともない」です。

英語圏で報道されている児童虐待裁判や賠償金報道が事実としても、そうはっきり口にはしなくても、「それで何人が虐待されたんだ」と言いたい感じのことを言う(笑)人がいます。

そんなものは大した問題ではない、と言い聞かせたいんでしょう。

何も知らない99匹の羊たちは組織という囲いの中で草をはんでいる、は事実かもしれませんが、不利な情報は消極的と片づけ、都合よくポジティブ思考を持ち出すのは聖書の教えではありません。


基地の件に触れると親日だの反日だの、という話が絡んできますが、「それで何人死んだんだ」発言は与党も不適切と認めて、引責辞任に至っています。

少数の被害者(犠牲)には目をつむれ、という姿勢が隠蔽体質と、組織によって教育される巡回や長老の無神経発言を生む土壌になってきた訳ですが、この組織では、傷つけられ、虐げられる下々の者に「エホバ様への忠節」の名の下に服従と忍耐と沈黙が要求され、序列が上の人間の発言に批判は許されないし、彼らは謝罪はおろか、引責辞任することもない。


大した問題じゃないよね。

何人虐待されたんだ。


これが、聖書によって教育されている人間の姿勢かと思うと、悲しいですね。


「トロッコ問題」のように少数者を犠牲にできるか問題で、為政者にとって難しい決断が迫られる場合は確かにありますが、JW児童虐待問題は、組織の面子(彼らにとってはエホバ様の御名)というつまらないものを崇めるゆえの、ただの隠蔽体質ですからね。

自分たちの組織神の御名を持ち出せば、彼らの中では高尚な葛藤にすり替えている人はいるのかもしれませんが、世の中一般には全く通じませんよ。

絶対他力

キリスト教とは、絶対他者への帰依(自己放棄)を特徴とする、と書きました。

この思想のルーツについてもいろいろ書けそうですが、そういうことをお勉強せずにこの思想を利用する宗教に勧誘されると、安易な他力本願を刷り込まれてしまいます。

人は誰しも、悩みや、弱みを持っていますので。

そこに「救い」を差し伸べるのが、この思想です。

それがいいのか悪いのかは知りません。

「救われた」と実感する人がいれば、それでいいんでしょう。

が、他力・他者への絶対依存を説く宗教はカルト化しやすい傾向があります。

前にも書きましたが、仏教で言えば浄土真宗系の親鸞会とか。脱会者たちによる啓蒙サイトや覚醒者たちによるブログを見ると、エホバの証人とそっくりそのまま構図が似ています。

自己判断の放棄、なので、教団・組織・教祖・統治体・・呼び方はどうでもいいですが、完全に思考や判断を第三者に委ねてしまう、それがエホバ様や阿弥陀如来様への絶対依存だという「すり替え」を植え付けやすいからです。

キリスト教で言えば、絶対依存の対象はキリストです。

これだけなら問題はありません。イエスはもう死んでいる(心の中にいるとかいないとか、天にいるとかいないとかは別にして、社会・歴史的に一般に認められる「人間」としては)からです。

かつて、も塔がカルトの条件の一つに「生きた人間」に従う、と書いた通りです。

幻視だろうが幻聴だろうが、自分はイエス様の声を聴いて導かれている、と妄想する人が個別に何人いようが、周りからちょっと怖がられるだけで実害はありません。


ところが、その生きた妄想人間が、教祖でも経路でも忠実な奴隷でも、我(ら)こそは宗祖によって予告された何かである、と主張して信者を集めると、カルトになります。

「地の人」に救いはない、と聖書が教えるように、そこに例外はありません。


ということで、絶対他力思想がいいか悪いかは別にして、カルトに利用されやすい、は間違いないと思います。その依存が中毒症状にまで達すると、第三者や覚醒者がそこからひっぺがそうとしても、「ではいったいこれから何に、誰に、どの団体に頼れば(依存すれば)いいのか、それを提示せずにやめろは無責任ではないか」と、まさに救いようがない他人任せなこと(笑)を言ってくるからです。


良薬と信じていたものが有害で依存性があると言われても、「じゃあ真のクスリ(宗教)はどこにあるのか」と聞き返してくる出口のない無限ループ思考・・これがカルト問題の難しさです。


ハマってしまった人は仕方ないので、これからハマろうとする人はお気をつけください。

ネット討論

幾つかのブログで書かれていましたが、も塔が「こう言った」ようです。


「一部の兄弟たちはネット上の討論に巻き込まれ、エホバのお名前に非難をもたらしてしまいました」


何をどうやらかして非難をもたらしたと「言って」いるのか、いつもながら肝心な所ははぐらかしますが、とにかくネット討論には参加するなと「言いたい」ようです。

なぜか。

自分が日本語のサイトで見かけた「討論」では以下のような事例が多いです。

まず、「討論」になるには「お題」がある。

大抵は、BC607年や、輸血拒否などの、WT独自の聖書解釈。

そもそも、こんなの討論して勝てる訳がない。まともな論拠がないんだから。


適当に細切れ字句を抜き出し切り貼りして「自分たちはこう解釈している」で押し通すしかない。外部資料はおろか、聖書そのものからの反論にさえ、耐えうる解釈ではない。


結局は、キリストではなく、解釈決定者のJWトウチタイが 「唯一神の唯一経路」 という、排他的一神教を二重に狭めた幼稚な前提に成り立っている教義でしかないので、まっとうな反論にさらされると、深い討論に至ることさえできず、浅瀬の浅瀬で幼稚な選民思想をさらけ出してしまう。

JWの表向きの薄っぺらい人の好さなんて、こんなもんです。

自分たちが考えた解釈や弁証に自信があるなら、ネットでもどこでもどんどんやれ、と言いそうなものですが、末端信者が教えられているのは無知な人を戸別に対面勧誘する 「盲人による盲人の手引き」 テクニックだけで、ネットで本当に知識のある人との公開討論ではフルボッコにされるのを知っているんでしょう。


それにしても、そんなんで名が汚される神って、ちっちゃい神様ですね。

世にあまた存在するカルト団体の信者がネット討論で自らの愚かさや恥をさらけ出したところで、神の名は高められも、汚されもしませんよ。


神の名をいたずらに「担って」はならない


十戒の基本ですね。

日本JW市場③

仏教本は、まだ付け焼刃程度にしか読んでいませんが、教えとしてもっともらしく語る人がそんなにいないだけで、仏教の自然観がしっかりとその土台にある平均的な日本人には、キリスト教の主知主義や絶対権威主義が馴染まないのも分かります。

アジアも同じで、もともと割合が少ないキリスト教徒を勧誘しているだけ。

お得意様のカトリックが存在する限りは、JWもトウチタイがトップに居座る階層組織=ミニカトリックとして、キリスト教界で寄生虫のように毛嫌いされながら生き残り続けるでしょう。


ここ日本では、JWはそこそこ増えたキリスト教系団体とも言えそうですが、もうとっくに頭打ちで、現在は衰退、縮小、拡大をあきらめた生き残り合理化の一途をたどっている様子です。


すでに書きましたが、仏教とキリスト教には似た教えもそれなりにあります。

宗教って、どこもそんなものですが。

互いに似せてる部分と、どこも同じじゃつまんないし勧誘のウリもなくなるから、マイナーなところで差別化を図り、それがさも「大きな違い」であるかのように見せかける。

特に、JWのような新興系が使う手法。


なかなか話が戻らないので、続きにします。

存在の軽さ

これもキリスト教との比較ですが、特に、JWでは 「死ぬこと」 は不自然だと洗脳されますが、日本人の宗教観では、死は 「自然」 なこととして捉えられています。

キリスト教に病まされていない人は、死ぬことそのものには、それほど抵抗がない。

ダウンタウンの松ちゃんは、ぱっと消えるだけでならいつでもいいが、苦しんで死ぬのはイヤと言っていた。好みはあるとして、人を笑わす才で長くやっている方たちの深層には、幾多の苦労の上に培われた 「存在の耐えられない軽さ」 ではなく 「存在の心地よい軽さ」 がありそうです。


日本人にとって死ぬことは自然なので、宗教に憑りつかれていない普通の人が強くシンパシーを感じるのは 「死」 そのものよりも、そのタイミングと死に方、になると思います。

全く苦しまずに死ぬのも不可能かもしれないが、いつかのテレビ番組で、認知症が進むことが遺伝的にも、症状的にも確実だと分かったとき、苦しまず眠るように死んでゆける無味無臭の薬(何かの液体)を飲むことが認可されている国が取り上げられていた。

かつて父親が老齢期に重度の認知症にかかり、暴力まで振るうようになって家族を長年苦しめたことを味わったゆえの、自分は絶対にそうなりたくない、という意志決定だった。

家族が見守る中、一人一人に別れを告げて、安らかに眠りについた。

日本では認可されていないようですが、一つの選択肢としてはあるのかな、と思う。

このブログに書いた非JWの友人も、もし布団の上で死ねるなら、最後の言葉は決めている、「あ~たのしかった」 と言える人生を送ること、それが人生の目的と迷いなく語っていた。


普段は達観しているように見えて、いざそのときになってみないとどういう心境になるかは分からない、はそうかもしれないが、普段から死ぬこと、滅すること、存在しなくなること、ばかりを考えて心を病ませない、というのは聖書、そしてイエスの教えでもあります。

思い煩ったところで寿命(天命?)に1キュビトも足せませんよ、という自明な教え。

命の日の限り精を出し、命に良いものを得させるようにとね、こっちは伝道の書。


明日さえ思い煩うな、というイエスの教えを語りながら 「将来に対する恐れや不安」 を煽る矛盾した勧誘で、ひっかかった人を初めから思考停止にならせる手法。


そのJWが宣伝するハルマゲ大量殺戮は、死に方が分からない、というおまけつきです。

天からの火で焼かれるのか、モーセに逆らった連中のように地割れに飲まれるのか、ダースベイダーみたいにフォースを操る天使に息の根を止められるのか、そのあたりは想像に任されている。
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