改革的批判

改革派という立ち位置。

JW信者(もしくは元JW信者)のコミュニティーに愛着があるのかないのか(度合いは異なる)、純粋な信者たちには都合のいいことしか知らせずカネ集めに忙しい、「恐れを生じさせる奴隷身分の霊」(パウロ)を刷り込んで支配する組織運営に腹立たしい、だから改革したいのか。

聖書にも愛着がある。信仰も持ち続けたい。

それもありです。

その一方で、聖書の批評的研究をすることで、「聖書」の隅から隅までの一字一句を権威として絶対視する根拠がないことに気づいた結果、組織支配から醒める人もいます。

それもありです。

JW経験者だけでなく、キリスト教経験者でも後者が主流になりつつあります。それは人の良識の進歩、科学知見の進歩、数々の写本や古代文書の発見に基づく膨大な比較研究の集積による知識考察の進歩がもたらしたものです。

それを信仰の冒涜だと頑なに言い張る人には、神の像として創造された人のポテンシャルを否定する字句主義者の隷属的原理思考(恐れを生じさせる奴隷身分の霊)や、そこから派生したWT解釈の影響が色濃く残っています。

JWはもともとが少数信仰です。

なぜ表向き性格がよさげな人が集まるのか。それは仲間外れの子を放っておけないタイプの「いい人」たちで、勧誘とは人の良さや同情心につけ込むのが常です。

「そういう人たちが集められている=聖書を学ぶとこんないい人になる」のは「そういうタイプの人たちがターゲットにされている」だけで、それが〝真の宗教の証し″という宣伝としてさらなる勧誘や信者離脱阻止教化に使われるのは、循環論法で連鎖的に再利用されているにすぎません。

少数者を顧みる、というのは確かに聖書の教えですが、その精神や、もともとの人の良さを「この組織内だけ」に限定させようと仕向けるのがWT協会です。

トッケン路線や自己評判作りに忙しい霊的セレブとは違い、全く純粋な動機で高齢者や子どもに親切にするJWもいますが、組織外の少数者にも同レベルで親切にする人は一人も見たことがありません。これは断言できます。

そのように組織に方向づけられてしまうからです。

同胞のユダヤ人(JW仲間)に親切にすることが部族神(組織神)への賛美と刷り込まれる。

それを否定したはずのイエスの教えから、かい離してゆきます。

原理信仰

「武器を持たなくても、原理主義はもう居場所は無いのかもしれない」
最近、頂いたコメントです。

このブログも聖書の原理解釈や原理信仰を否定する方向に傾いています。

キリスト教書や史的批評、宗教哲学書を読み漁っている影響は、間違いなくあります。

WTからすると、人間の哲学とやらに毒されている、となるんでしょう。WTは人間の知恵、人間的な考え、人間的なやり方・・など、神の像であるはずの人間が持つ知性や創造性や善意、あらゆるポテンシャルを否定します。それは創世記3章の恣意的な解釈に如実に表れていますが、実はそれって裏を返せば、人を貶めて被支配層のマゾヒズムを刷り込む内なる悪魔の主張そのもの、なのかもしれませんが。

さらに言えば、そういうWT教理も人間による原理解釈の一つにすぎない訳ですが。

自分(たち)の解釈のみが神がかっている、という幻想に浸りたい人もいます。

時々荒れるようですが、自分も個人の原理信仰を否定しません。

WT解釈のおかしさに気づいた人が個の原理信仰を貫きたいなら、別にいいと思います。

自分が批判しているのは、原理信仰を利用して他者を支配する宗教権威です。

人を無視する
犯罪を隠蔽する

この延長に「人を殺す」宗教戦争があるのでしょうが、これらは原理信仰を持つ人が集団化して、人や人の権威が命じているにすぎないものを、「神の命令だ」とすり替えることで生じる被害です。

その土壌に原理信仰があるのは事実ですが、今のところ個の信仰まで否定するつもりはありません。

原理信仰は、現実でもネットでも、ますます居場所がなくなっていくでしょう。

でも原理信仰を性急に排除するような傾向も、行き過ぎると過激になります。

信仰者が皆そうだ、というのは全くの偏見ですが、居場所のなくなった一部の原理信仰者が結社してカルト化する、より頑なに先鋭化する、過激な報復手段に出る、ことは現実に起きています。

なので個の原理信仰そのものは尊重したいとは思っています。

6日間創造を信じる、かのユダヤ人信仰者のストレートな信念には素直にリスペクトでした。

ほんとうの信仰者ならこんなブログで揶揄されたところで気にもしないでしょう。

ただ信仰とは何なのか、その対象が本当は何なのか、をWT関係者には考えてほしいですね。

本当に神なるものなのか、聖書なのか

それとも人間の集団なのか、ただの年代なのか、表記なのか

何かの宗教解釈や学問的な知見を 「正しい or 間違い」 とする自分のジャッジなのか


それくらいの気軽さで書いています。

視聴覚教室

JW会館がいよいよ視聴覚教室になるようです。80万円?くらいかかる映像システムの会館への導入を検討するように、しかも費用は「その会館を使用する信者の負担とされている」らしい。まあ大元は統治体の御神託だろうし、もはや日本支部は市役所程度の権限しかないから、手紙の書き方も他人事になっているのかな。

組織への忠実度が高い会衆から順次、実施されてゆくのでしょう。

ほとんどのローカル法人は地元会館の修繕用に積み立ててきた資金を根こそぎ、自発的に(笑)も協会に送金している。多い所では数百万ものカネをかっさらわれている。なぜなら、今後は通常経費の3か月分を超える改装修繕はも協会が面倒を見てくれる、地元で貯める必要はない、いや貯めてはならぬ、と確約したからだ。

でも視聴覚教室化の費用は全額地元負担、さらにその導入は、登記上の名義に関係なく支部の管理財産になった(いつの間に)王国会館の「改装修繕」にあたるため、支部の承認が必要であり無断でスルベカラズ、とのお達しもきているとのこと。

口は出すがカネは出さない、責任も取らない、大掛かりな改装は支部が費用を負担するから最低限の有り金を残して根こそぎよこせ、と放言した口が渇かない内にやってくるも協会の御神託。

神は偽ることができない。

創造主は御心のままに悔やむので、言うことが変わってもそれは偽りではない。

「エホバは恥ずかしいとは感じない」というレット君の名言通り、神に羞恥心はない。

へりくだってその御心に合わせるべきは塵に等しい、罪深き人間だからだ。

送れと言われれば送り、貯めろと言われればまた寄付集め。

エホバ様はその従順を喜ばれ、ハルマゲドンで殺さないでいてくれるそうだ。

これが宗教マゾヒズムというやつか。

かつては、自分たちの区域に、自分たちの王国会館を持つことが何よりの誉れ、真の崇拝の促進につながるとの意識を持て、と炊きつけて数千万の寄付を集め、リストラで合併売却を指示すればそのカネはも協会へ・・え?君たちのじゃないよ、エホバ様に献納したんだから支部の管理財産だよ?車で1時間くらいなら通えるでしょ?と、手のひらを返す。

だったらきちんと、も協会の登記にしてそこで指導監督されていることに責任を取ればいいのに。

生きた人間

自称指導者への無条件の献身・・
そんなこと言ったらキリストは自称指導者ではないのか、という人もいると思います。

WT的に反論すると、イエスは自称指導者なんかじゃない、メシアについての旧約の予言はすべてイエスに成就した、イエスは真にメシアである神の子なり、ということでしょう(旧約の予言が“証明”しているという、旧約側を主な論拠とする手法はWTが好む)。それは神性についての議論を抜きにすればキリスト教でも同じだと思います。

でもキリスト教が真の宗教「かどうか」ではなく、カルト「かどうか」に限定するならポイントはそこじゃないと思います。

その人が自称指導者かどうかは主観・・信じる「かどうか」の問題です。

どんなに自分がそう思う“証拠”を積み重ねた所で、そう思わない人もいます。
それは必然の対立で、地球が丸い「かどうか」のように収束する議論ではない(多分)。

だからWT信者も、「自称指導者への無条件の服従」がカルトの条件だということは知っている、そのことで他宗教を非難することもあるが、自分たちだけは違う、自分の指導者たち=指導の任にあたる人たち=統治体・・は自称指導者じゃない、本当に神に選ばれ用いられている、と信じている。自称「かどうか」を証拠に基づいてジャッジすることが大事だ、という論点にすり替えてしまう。

繰り返しますが、ポイントはそこじゃないと思います。

WTが過去に言及したカルトの条件には、もう1つの要素があります。

生きた人間に従う。その人間は神に選ばれたと主張してはばからない』

キリスト教そのものが、キリストが真に神の子なの「かどうか」という議論を抜きに、カルトではない理由はざっと考えて2つあると思います(素人の大雑把な考察です)。

⇒ イエス本人は「キリスト教」ができる前に死んだ

⇒ キリスト教は書物宗教である

書物宗教の利点は「書いたことは変えようがない」ことです。写本初期の加筆がどうの、翻訳で改変がどうの、という話は別にして今から原文(とされるもの)を変えるのはまず不可能です。

キリスト教含めどの宗教でもカルト化するのは、神やキリストの権威を全面的に代表すると自称する生きた人間が、「書かれている事柄」を意のままに解釈し、神的権威を主張して命令を下し、その指示や命令に対する無条件の服従を要求し始める時です。

某カルトも名前を変え、教祖をまだ神格視しているらしいが、その生きた人間(まだ執行されてないんでしたっけ?)とのリアルタイムの指示命令経路が断たれている限り、以前ほどの危険はないと思います。どの宗教でも危ないのは、生きた人間の誰かが神や初代教祖の生まれ変わりだの後継者だのと称して強力なリーダーシップを取り始める場合です。

信者たちはウチの指導者様に限っては自称じゃない、紛れもなく神に選ばれている“証拠”がある、と思い込んでいるが、ポイントはそういう水掛け論じゃないし、そこに例外はない、それが聖書の教えでもあると思います。

『高貴な者にも,地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない』
(詩篇146編、新世界訳)

カルトの条件

WT教材によれば、上からの知恵である「道理にかなう」とは「進んで譲る」ことらしい。

WT信者にとって「絶対に譲れないもの」とは何か。

⇒ 古ヘブライyhwhのローカル言語での発声・翻字の使用(正確でなくてよい)

⇒ 進化論の否定(人格的創造神への信仰)

⇒ 聖書の逐語的無謬性

⇒「エホバの証人」という宗教組織の神的権威としての唯一性

他にもあるかも知れないが、数分考えてざっと思いつくのがこれくらい。

この中で最も弊害があるのはどれか、と考えるとダントツで最後の命題だと思います。
WT自らが過去に言及したカルトの条件の1つだからです。

「神に選ばれたと主張する自称指導者(たち)に対する無条件で排他的な献身」

それ以外の3つを主張するのも今では少数派ですが、少数者の信仰すべてが自動的にカルトなのではなく(利用されることは多い)、やはり上記の要素・・自称指導者への無条件の服従、が主な条件の1つだという点では過去のWTに同意します。

ただ複雑なのは、児童虐待隠蔽だろうが、預言解釈の度重なる失敗だろうが、すべてを「不完全さ」で自己処理して、そんなことよりも前者3つを組織として1つも欠けることなく頑なに守っている少数者であることを「真の宗教」の証し ⇒ 最後の命題の根拠とする人もいる。

その場合、前者3つの議論を避けて通れなくなるが大抵平行線になる。このブログでもその3つに幾らか立ち入ってはいますが、大多数の人が客観的証拠に基づいて否定することを頑なに信じる少数者である、という高揚感が彼らを支えている。

だから、前者3つ(他にもあるかもしれないが)の否定が最後の命題からの解放に繋がる人もいれば、別のアプローチから最後の命題を否定するようになっても、前者3つ(またはその内の1つか2つ)は強く信じ続けている、つまり最後の命題の否定が前者3つの否定に拠らないという人もいる。

そこで、周期的に荒れる。


別にWT批判が一致する必要もないし、血の通った意見をぶつけ合えるのもいいと思いますが(最低限のマナーは必要にしても)、主に批評すべきは最後の命題である、という点ではある程度、共通の認識があってもいいのかなと思うこともあります。

それでこのブログでは、WT商標付き人格神やWT逐語解釈を、WT支配が生み出す弊害と関連付けることはありますが、創造説や聖書の霊感説そのものは否定しない方向性で書いています。

この方向性が絶対に正しいと言うつもりもありませんが・・


絶対に守るべき、譲れない信念があるのはいいとして、巧妙な論点のすり替えで信者をゆでガエルにして、自分が守ろうとしているものが本当は何なのかを本人にさえ分からなくさせているのが最近のWT支配です。今や「神の王国の宣伝」が、ウェブサイトやロゴマークの宣伝にすり替わっても何も感じないという・・ 
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