エホ証の聖書劇

今年も暑い夏とエホ証「地域大会」の季節がきました。

巡回監督取り巻き長老たちへの論功行賞イベント、ものみの塔記事朗読会のような単調な話が延々と丸3日間続く、暑苦しい会場だともはや修行というか救急車すらガチで呼ばれてしまう荒行。その中で信者にとっても多少の気分転換になる時間が聖書劇です。

本題になりますが、この聖書劇について前から思っていることがあります。

ドラマや映画でも、歴史ものがあります。いつどこで何があったとか、誰が何をして死んだとか、大まかなストーリーは史実通り作られていても、その行間を埋める細かなシーンや歴史に実在する人物のセリフ、会話などは、作り手側の想像によるものです。ぶっちゃけうそなんですが、そこはお金儲けのための娯楽作品なので、展開はドラマチックに、登場人物は魅力的に、またはえげつなく描くためにどう脚色しようが作り手側の勝手なワケです。

エホ証の劇にも同じような脚色があります。例えば、何年か前の1世紀の若者テモテが主役の劇でも、テモテが当時の高等教育を受けるよう“仲間からの圧力”を受けているシーンがありました。

そんなシーン、聖書のどこにも書いていないので、現代の大学教育を否定するための、100%統治体の脚色により付け加えられたものです。

聖書を題材にした映画も多数あります。興行収入を目的とした娯楽作品で、聖書のストーリーには誰の著作権もないので、どう脚色しようが作り手側の全くの自由ですが、聖書を神の著作と公言し、それを「正しく扱う」べきクリスチャンが同じことしていいのか、とふと思います。聖書は霊感を受けた言葉に対して「付け加える」ことも「取り去る」こともしてはならない、と書いています。

統治体の価値観と思想を宣伝するために、聖書にないセリフ、会話、シーンを付け加える・・それは営利目的とはまた別の目的のために、ただ聖書を利用していることにならないでしょうか。
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