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エホ証になるとは

前回コメントしてくれた方のように、エホ証になる人は神に献身し、キリストの弟子になると思ってそうなります。

自分もそうでした。

「わたしたちは、生きるなら神に対して生き、死ぬなら神に対して死ぬからです。生きるにしても死ぬにしてもわたしたちは神のものです」

しかし、この「組織の一員」になると、従う相手が神とキリストではない事実に気づきます。多くの信者はレベルの差はあっても、ある人は「開拓者」になって、またある人は「奉仕の僕」に、あるいは「長老」になって初めて与えられる長老からの、巡回監督からの、組織からの指示に戸惑うことがあります。

それが、それまで学んだ聖書の教えからすれば、???と思うことでも従わなければなりません。
なぜならエホ証になる洗礼の儀式で、実は誓わされてしまっているからです。

その儀式での2つ目の公開質問。

「あなたは、神の霊によって導かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか」

まだ組織の裏と現実を何も知らされていない段階で「ええ、もちろんエホ証になるんですよ」くらいの当たり前な感覚で「はい」と誓わされてしまう質問に、非常に重大な文言というか言質が巧妙に刷り込まれています。

つまり、エホバの証人という宗教団体が「神の霊によって導かれる宇宙的な組織」の一部である、ということを認めた上でその一員になるのか、ということです。

この質問に「はい♪」と答えてしまった以上、組織の命令や指示に従うことは義務であり、その命令に抵抗して排斥になっても、逆にその指示に従ったゆえに人生や家庭がメチャクチャになっても、すべては自己責任であり、誰にも文句は言えない予防線が張られているのです。

自分の好きな映画に、十字軍時代のクリスチャンとムスリムの抗争を描いた「Kingdom of heaven」があります。

その中で、エルサレム王が配下の騎士に語った言葉。

「王は人を動かす。だが、たとえお前を動かす人間が王であろうと、権力者であろうと、お前の魂はお前自身のものだ。『こうするように言われた』とか『やむをえず良心に背く行動を取った』などと、だれも神の御前で言い訳はできない」

この人はクリスチャンですから当然、この考えは聖書からきているものです。

「どうしてあなたは自分の兄弟を裁くのですか。わたしたちは各々、神に対して言い開きをすることになるのです」

この騎士は後に自分の良心に逆らえず、王のある命令に背くのですが、王はそれをとがめませんでした。

エホ証統治体にもこの王を少しでも見倣ってほしいものです。先日の研究記事みたいに「我々の書いた印刷物を読んで『神が自分のために書いてくださった!』とお前も感じることがあるだろう?ん?ん?」みたいなことをおっしゃっている内はまず無理だと思いますが・・
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排斥の時効という記事からですが

何年もたった後に告白した罪は排斥を免れるとありますが、例えば不道徳を一度犯してしまい、深く反省し神に祈りの内に心からの悔い改めを表明し、きっぱり別れ罪を犯し続けない様行動もしていても、長老に告白しなければ神から罪は許してもらえないのですか?

Re: 排斥の時効という記事からですが

自分も以前に考えたことありますが難しい質問です。しばらく悩みました。

現役の方にとっては「組織=神」であり、「エホ証組織に留まれる=神に許される」なのですが、実際に組織に留まれるかどうかを判断するのは神ではなくエホ証長老であり、その根拠は聖書ではなく「組織の指示書」です。

それで組織に留まることを願うなら、長老に告白し、たとえ排斥されても集団無視の中集会に出続けるという懲罰に耐えねばなりません。数年以上経ってから告白すれば排斥を免れるケースは多い、と書きましたが、それも審理委員の腹積もりと組織への手紙の書き方一つですので保証はできません。

あくまで一般的なケースとして個人的な見解も記しますと、聖書の教えでは神の許しは、キリストの贖いに基づいて悔い改めることによってのみ、可能になります。悔い改めるとは罪を心から後悔し、神に許しを求めることです。

聖書は神に対して罪を告白することを勧めている個所は多数ありますが、長老(人間)に告白することが神の許しの絶対条件であることを示す個所はありません。エホ証が根拠とするヤコブ書5章も、文脈から明らかなように、罪の告解がテーマではなく、忍耐と辛抱を励ますメッセージの一環で「元気のない人は年長者を呼びなさい」と書かれているだけです。

「違反を覆い隠している者は成功しない。告白して捨てている者は憐みを示される」→これも何かの権威を持った人間に告白すべき根拠とはなりません。

「わたしはついに自分の罪をあなた(神)に告白し、とがを覆いませんでした。すると、あなたがわたしの罪のとがを赦してくださいました」→ですから聖書は罪を神に告白することを勧めており、そうする人は当然、その罪を捨て、隠された罪を続けることはないはずです。

クリスチャンにも「互いに罪を告白する」よう勧めている個所はありますが、聖書の言う「罪」とは非常に広義で「基準に達しない」ことを意味し、ある意味わたしたちは毎日罪を犯しています。そのことを謙虚に認め、小さなことでも日ごとに神と仲間に許しを求めることを勧めてはいますが、プライベートで自分がしたことすべてを関係のない人にまでカミングアウトすることが要求されている訳でもありません。

それで自分の罪によって影響を受ける人がいる場合、犯した罪をどの程度の範囲の人に告白して許してもらえるよう努力をし、そして何かの損害を生じさせたのであればその償いをどのようにするかは、その人の決定になるかと思います。しかし、人に許してもらうことやどの程度の償いをしたかは、神に許されるかどうかの絶対条件ではありません。ユダの邪悪な王マナセは大勢の無実な人の血を流しましたが、神に対してその心がへりくだったとき、神は即座にマナセを許されました。それでもダビデの姦淫の子は生まれですぐ死んだように、「まいたものは刈り取る」という教えの通り、神に許されたとしても罪が生じさせた好ましくない結果による報いは免れないことがあります。

罪の許しについての聖書の教えをまとめてみることこうなるかと思います。

① 罪は第一義的に神に対して犯されるもので、その許しはキリストの贖いによってのみ可能。
② しかし、罪の生じさせた結果の報いは免れないことがある。
③ 相手がいる場合、許してもらうため、罪を償うための努力をどのようにするかは個人の決定。

少なくとも、エホ証長老に告白することはその条件には含まれていないと思いますが、本当に聖書の精神が反映された愛に溢れるクリスチャン会衆と長老が存在すれば、義務かどうかではなく、進んで助けと慰めを求めたくなるはずです。

残念ながら、エホ証長老に告白しても、非聖書的な「審問会」に呼び出され組織のマニュアル通りに無神経な質問をされ、「排斥」という非聖書的な懲罰に値するかどうかを組織の基準で裁かれるだけです。これも現役の方を苦しめる一因と思います。

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