この書物は信頼できますか

「この書物は信頼できますか」・・これはものみの塔が聖書について投げかける質問。

彼らが聖書を信頼できる理由の1つとしてあげるのが、「率直さ」です。

「正直な歴史家であれば勝利だけでなく敗北を,成功だけでなく失敗を,強い所だけでなく弱い所をも記録するでしょう。そのような正直さを反映する世俗の歴史は少数にすぎません。(中略)対照的に聖書筆者は気持ちのよい正直さを示しました。イスラエルの指導者であったモーセは,兄のアロン,姉のミリアム,甥のナダブとアビフ,自分の民の落ち度だけでなく,自分自身の間違いをも率直に伝えています。このように率直で包み隠しのない伝え方は,真実に対する誠実な関心を物語っています。聖書筆者たちは自分の愛する家族,自分の民,さらには自らに関する不利な情報も伝えようとしているのですから,彼らの書いたものを信頼できる確かな理由があるのではないでしょうか」

・・「勝利だけでなく敗北を、成功だけでなく失敗を記録する気持ちのよい正直さ」

・・「自分の民の落ち度・自らに関する不利な情報も包み隠さず伝えようとする率直さ」

相変わらず文章そのものは非の打ちどころがないほど義にかなっていますが、実行していないところがパリサイチックですね。

・自分たちが「勝利」した裁判ばかりを載せるのはナゼデスカ?※
・性的虐待・児童虐待などの不祥事を公表せずに極秘に処理するのはナゼデスカ?
・外れた解釈を気持ちよく失敗と認めずに、巧妙に「調整」してゴマかすのはナゼデスカ?
・「億」単位の非課税の寄付を集めながら具体的な使途を信者にさえ公表しないのはナゼデスカ?

≪結論≫ 聖書は信頼できても、エホ証「組織」は信頼できないことがよく分かりました

「高貴な者にも、地の人の子にも信頼をおいてはならない。彼らに救いはない」

聖書は、神の言葉そのものを語った預言者やイエスを除けば、指導する監督に従順であるよう勧めてはいても、いかなる人間も「神の代理・経路」として信頼するよう命令しておらず、イエス以外の人間を「救いの経路」として信頼することは危険であると教えています。

統治体は(自分たち以外の)地の人の子には信頼を置いてはならない」と、いつも「自分たちは例外」と考えているのでしょう。どんな聖書の言葉ですら自らを例外とするゆえに、聖書にすら縛られません。

※自分たちが敗訴したことも取り上げることがありますが、それは自分たちに非がある児童虐待とかの裁判ではなく、「信教の自由」のような自分たちが正しいと声高に主張できる事例においてその判決は不当である、とアピールするときです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR