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排斥は神の「取り決め」?②

エホ証が排斥制度の「根拠」として使う唯一の事例が、コリント会衆に宛てた使徒パウロの手紙。

『兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。(中略)「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります』


文脈には、当時のコリントの会衆に自分の父の妻とさえ関係を持つような「淫行の者」がいたことがパウロに伝えられた、とあります。それでコリントという一つの都市にある会衆に対して、淫行を公然と習わしにする「邪悪な人」がいることが伝えられたので、「その人を除き去りなさい」と書き送ったという事例です。

この事例を根拠に「全会衆に拘束力を持つ制度」として作り上げたのが、「審理委員会⇒排斥」という制度です。統治体が「排斥に相当する罪」として規定した行為を、過ちゆえにたったの1度だけ行なったとしても「審理委員会」に告解し、排斥に値するかどうかの審判を受けるべき、という制度。

弱さゆえに過ちを犯した訳ですから、気持ちや考えの整理がついておらず、また自分を弁護したいという気持ちもあることでしょう。それでもたった1度の審問で「悔い改め(反省)が不十分」と判断されれば、排斥され、そのことが会衆に発表される。事実上「会衆の全信者はカン無視せよ」との命令が下る訳です。これ程の非情な扱いを受けても、エホ証以外に生きる道がなく戻りたい、という人は最低でも数ヶ月かそれ以上の期間、公然と全員から無視されながら集会に出席し続ける、という異様な仕打ちに耐えなければならない。

例えて言うなら校則を1回破っただけの生徒を「反省不十分」という理由で、見せしめとして生徒全員に学校の内外を問わず半年間完全に無視させながら授業を受けさせる、という仕打ちをその学校法人の理事会から命令された教師たちが主導しているようなものです。

教師たちはというと無視される生徒を眺めて良心を痛めるどころか、理事会様のご命令に従い「自分たちは学校の規律と評判を守った」となんかとても満足している。一方、こんな仕打ちに見かねて勇敢にも反対意見を述べる生徒がいると「学校を守るために行動した先生ではなく、悪魔に立ち向かいなさい」と全生徒に通知されます。

残念ながら、暴力や恐喝を伴わない無視や悪口などの精神的ないじめは立件しにくいように、「懲罰として信者に無視するよう命令する」ことでは刑事上の責任までは問えず、独自の宗教解釈の自由として認められるようです。学校という教育の場での「精神的な苦痛を与えるいじめ・懲罰」が社会的問題として議論されている昨今、国からの保護や恩恵を受け、さらに宗教という人の精神の根幹に関わる活動をする法人団体が信者にこんな懲罰を実行するよう指示している訳ですが、まあ日本では信者数が20万くらいで頭打ちになっていますからそこまでの社会問題にもならないかもしれません。
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