信の量り

三位一体だの受肉だの、JWでは、小難しい教条的な文言を権威にして異端扱いしてきた偽りのキリスト教の歴史、としか習いません。まあ、そういう要素も皆無ではないでしょう。

しかし正統派では、人性と神性という2つのピュシス(本性)のヒュポスタシス的結合(融合せず、変化せず、分離せず、分割せず・・自然科学で結合を表すどんな種類の「つながり」にもカテゴリーされない)という定式でそれを表現しますが、人が神の像であり、その神性を宿す器として「神の性質にあずかる者」となる道筋を守ろうとしてきた歴史、と見ます。


別に神秘でも何でもない、ヒトをヒトたらしめる「小さき行い」の中にロゴスは宿っている。そして苦しむ人の中には苦しむ神がいる。

その信からの応答として「この小さき者の一人に為す善きこと」がアレテーとなる。

魂の善きかたち。

でも「善行(徳)を積む」ことが目的化するなら、それは信からの逸脱を意味します。


自分を変革(かたちを変容)するように、とはパウロも勧めているが、忠告もしている。

「わたしに与えられた恵みによって、あなた方に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」 (ローマ12章:新共同訳)

口語訳では信仰の量り、となっています。

まあ、無理すんなよってことです。誰もがマザー・テレサのような聖人になれる訳でもない。

あくまで、信の量りに応じて、魂のかたちも変容します。

ヒトがヒトである(人性に与る)ことが意志や努力の結果ではないように、神性に与る者となることも恵みであり、それは信仰の度合いに応じて生じるからです。


「この小さき者の一人に為したことはわたしに為したことだ」


この言葉を、オレ様の扱いが悪いと、ビッグブラザーにどう思われても知らねえぜ?と厚顔無恥な適用をする宗教指導者や、その善行を、恥の上塗りのように重ね塗りされるWTの嘘っぱち終末解釈を宣伝する活動に限定する解釈が、いかに歪んだものかを思い知らされる。


たとえわずかな会釈でも、頭を下げる習慣を持つ文化は少なくない。

適者生存を生き残ったヒトが、一つ上の本性への変化(進化?)の途上にある。「キリストの丈」「キリストの手本」など、ロゴスの受肉はその道筋を示すものとして新約で語られている。

宗教も、淘汰とは無縁ではありません。迫害によらず、反対によらず、JWのような「古い人格」へとヒトを逆行させる宗教は、自然と淘汰されてゆくでしょう。
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