魂のかたち

アレテーとは、ざっくり言うと善の具現化です。

善そのものは概念ですが、それを具現化したものが徳です。

「魂の(善き)かたち」とも言われます。

カリスの超越性と絶対の無償性は、ヒトの意志とは関係ありません。

だからといって「怠惰で実を結ばない者」(新共同訳)にならないようにと諫めたのが、第二ペテロの「信仰に徳=アレテーを加えよ」という教えです。


ヒンズー教のブラフマンが息を吸ったり吐いたりするかのごとく、生成を繰り返す宇宙のエントロピー(そこに善も悪もない)が唯一確かな自然科学上の事実なら、「ただ食べたり飲んだりしよう、明日は死ぬのだから」ということになるのでしょうか。

キリスト教(思想・神学)のユニークな回答が、ロゴスの受肉です。

このロゴスも、ギリシャ思想では宇宙の原理そのものを指します。

ところがキリスト教では、そのロゴスがなんと人に宿ったと言います。

「言葉(ロゴス)は肉体となってわたしたちの間に宿り」 (ヨハネ1章14節)

ロゴスが固有の、一個のヒトの内に具現化した、という感じです。


ヨハネ神学のイエス(受肉したロゴス)はそれを繰り返し語っている。

「しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」

「わたしを見た者は、父を見たのだ」


これを敷衍するなら、「その人」を見れば「その人の神」が見えることになります。

JWの思想や言動を見れば、「JWの神」が見えるようにです。


「この小さき者の一人に為したことは、わたしに為したことだ」 (マタイ福音25章)

東方教会では、身体の聖化(神化)とは、諸々の情念(パトス)が「より善きかたち」を取ろうすることで神的な生命(ただの哺乳類の延長ではなく)に与る姿、とされています。

新世界訳では、それを 「神の性質にあずかる者」 (第二ペトロ1章)と表現しています。

この信(ピスティス)を持たない人でも、困っている人を見れば反射的に助けようとしますが、クリスチャンの善行はその信仰からの応答としてなされます。

善行を必要としている人(隣人)とは神であり、神が、それぞれの人の苦難を自らのうちに受容した、神の降下(受肉)をその内に見る、という視点です。
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