奴隷意志

ヒトに思考や識別する能力、その結果として選択する自由があるのはそうですが、その能力は絶対ではないので、思考しすぎると(思い煩う)と言い訳(因果)は幾らでも思いつく。

自由意志と言いながら、その能力を劣化させることで統治するのがWT支配。

組織に不利な情報はすべて「背教者のウソ!」という呪文で思考をフリーズさせる。

パブロフの犬のように、条件反射のような「奴隷意志」を刷り込まれる。


救いに至る狭き門、とは法人団体の規模や、行動や思想範囲、選択肢の狭さではないですよ。

「人の子が到来するとき、地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか」

キリスト教として表現すれば、それは信仰のことです。

それは見かけの少数派信仰でも、団体信仰でも、教条信仰でもありません。


そもそも、初めのおきて「食えば死ぬ」に選択の自由はなく、因果を示すだけです。

死ぬぞと脅してんのに、純粋な愛に動かされて自発的に従ってね?(WT洞察)と本気で仰る神様は、頭か、性根かのどっちかが悪い。

「~すれば死ぬ」に選択の自由があるはずもなく、高い所から落ちれば、意図か事故か、義人か悪人かに関係なく無慈悲に、重力や作用反作用などの法則(因果)に殺されます。

無限に知恵ある憐れみ深い神様なら、詩編に通じた悪魔の解釈のように、地面に衝突する直前に斥力が発生する(あなたの足を石に打ちつけないようにする)法則も作れたはず。


宇宙自体が超巨大量子コンピューターのようにある種の意識(意志)として機能し、生命の発生進化に有利な条件(法則)を備えるよう生成を繰り返してきた、としても、この時代に生きる人の感覚が「残酷だ/親切だ」と裁ける基準で、現在この宇宙、そのちっぽけな生態系である地球も、成り立っていない。

旧約の神はヒトのように「語る神」(新約では「父」はほぼ語らなくなっている)ですが、擬人的に描かれてはいても、一部の著者たちは自然、というものの背後にヒトならぬ超越性や普遍性を感じ取っていた可能性はあります。その意志が定めた因果(ルール)なら、それに逆らえば死ぬだけのこと、彼らの主は善良な者にも、邪悪な者にも、豊かに与え給い、奪い給う。

それはカリス、見返りを要求しない完全また絶対の無償性です。

アリストテレスもそれを直観していたのかもしれない。


ただ、そういう神観を特定の民族や宗教だけのアイドルに祀り上げると、仏壇仏像破壊のような、偏狭な浄化主義を生む。まいたものは刈り取る、他者を量るはかりで量られる、剣を取る者は剣で滅びる、その因果の歴史、JWという宗教もその小さな反復の一つなんでしょう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR