スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

恩寵

ヒトの自由意志絶対信奉者(WT含む)がそれを主張する理由の1つは、意志や努力による救いを否定してしまうと、人間は倫理的に堕落する、という余計なおせっかいです。

似た理由で「神のご要求」とやらに付け加えて垣根を巡らしたのが、(新約で描かれる)ファリサイ人、中世のカトリック神学者、そして現代の原理主義者(JWトウチタイ)です。

ルターが否定したのは、善行(とされるもの)ではなく、善行(と権威が命じるもの、自分が考えるもの)によって救いが得られるとの、権威信仰、自分理解信仰です。

『彼らが善い行いをきわめて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施しなどにとどめ、それ以外の行いは、すべて神にとっては無価値のものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕になるべきであるにも関わらず、その奉仕の道をせばめ制限しているのである』


さて最近のも塔で恩寵(grace)の話が出てきました。ギリシャ語カリスです。

『この言葉は人間に対する神の愛ある親切の完全かつ絶対的な無償性を説明するために・・キリスト教の著作に見られるように新たな仕方で強調されるようになる素地を備えていた。例えば,アリストテレスはカリスを定義して,まさしくこの点を専ら強調している。すなわち,その恵みはお返しを期待せずに無償で施されるものであり,その唯一の動機は与える側の惜しみなく与える気持ちや気前のよさなのである」と述べています』(WT洞察)

あれ、カリスが完全かつ絶対的な無償性を示すとか、しかもそれを定義したのはアリストテレスだとか、「キリスト教の著作」でも使われるようになったとか、洞察って相変わらず、JW的にもあぶなっかしいことが引用されています。


そしてぶどう園の報酬の話。

丸1日の労働でも、1時間の労働でも、その労働に対する報酬として支払われるのではありません。たとえ最後の1分でも、そして全く働かない人にさえ、主人は「自分のもので自分の望むことを行ってよい」のです。

それが初めから分かっていたらどうするでしょうか?

わざと遅くいく人もいるでしょう。どっちにしても同じカネ貰えるんだろ?

それでも、いやだからこそ、より早く行く人もいるでしょう。

それが信心か不信心かはカミのみぞ知る、(意志決定による)行動が絶対の基準ではありません。だから万人救済説も、カミの意志をヒトが決めつける逆の極端だとオモイマス。


信仰に至れば、それは必ず言動に何かの「表れ」がある、というのはあたりまえの因果です。ただ何がその人にとって、ルターの言う、「いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄」なのかは、ヒトには裁けないのです。

なので特定の言動、まして特定の教団の宗教活動が報酬の「条件」にはなりません。その報酬が仮に先払いだとしても、何かの責任を発生させることもない。だからキリスト教が倫理的にも善とされる行いを広めるとしても、ヒトには自由意志があるか否かという哲学問答でも、脅しを伴う「救いの条件」としてでもなく、その救いは神の側からの完全また絶対の無償性による、というシンプルな信仰からの応答としてなされるべき、というのがルターのバランス感覚なんでしょう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。