信仰義認

ルターが徹底した信仰義認を説いているのは分かるんですが。

でも「信仰のみ」が人を義と宣するとしても、いろんな聖典や宗教を比較検討して識別して、キリスト教信仰を「選択」することは、その人の意志ではないんですかね。

どうやら違うようです。

「聞いたこともない者に信仰を持つか」というパウロの言葉が示すように、仮にいろんな宗教を「自発的に」調べよう、その中にキリスト教や聖書も含めようとしても、伝える者がいなければ聞き及ぶことすらありません。(キリスト教や聖書の存在自体を知らなければ選択の対象にならない)

パウロやモーセに「自分が神を選んだ」という意識はなく、「神が彼らを選んだ」のです。だから新約でも「正しい宗教を選んだ者たち」ではなく「召された者」や「選ばれし者」という表現が使われている。

つまり、そのことに対する信仰、になります。

JWはこれをトッケン階級限定にして、そこは自分のチョイスじゃない、召されるものだ、その感覚は平信徒庶民には分かるまい、と教えてしまうので、大部分の信者が新約の本質から置き去りにされてしまっています。


それは自分が正しい宗教を選んだ、という確信ではなく、自分が召された、という証しです。


何が違うのか(大汗)


自分や他人の人生を狂わせる勘違いカルトや自称教祖も後を絶ちません。

ウォーウィック宮殿には自団体ワールドを支配する「自称選ばれしセブン」がいます。

宗教嫌いの人から、そんなのどっちも思い込みだろが、と言われても反論はできません。

でも悲しいことに?それが信仰なんです。

それを客観的に「見分ける」ことなど誰も出来ませんが、多少の見分け方になるのは、自分の信仰に関しては強い自己主張や独善的な反論をしない人です。自分の選択を擁護する必要がないからです。

JWに限りませんが、自分の宗教宗派を擁護したい人って、自分の選択は間違っていなかった、という保証が欲しいんですよね。その手前味噌な保証が信仰だと勘違いしてしまう。

批判派の人にも、自分が選んだ昔懐かしJWはよかった、間違ってなかった、そして見切りをつけた今の選択も間違ってない、という保証が何が何でも欲しいという思考から抜けきらない人もいます。まあ、そういう考えも「間違っている!」とは言い切れませんが。


もう一度、カール・バルトを引用します。

『神を愛する者たちは・・神を愛するつもりでいるか、あるいはそう申し立てていながら神を愛さない召されない者たちとは明らかに対立して、召された者たちと呼ばれている・・神を愛する者たちは、見分けるのがむずかしいほどにかれらと似た者となることに決して抗議しない。彼らを正当なものと認めることができるのは召命そのものだけであって、決して、召命されているとの訴えではないということをよく考えた上で、かれらは自分たちが召命されているとも訴えないだろう』
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