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自由意志

周期的に書いていますが、福音主義(そこから派生したJWも)が神議論で持ち出す自由意志...こそ神すら侵さぬ絶対領域、という発想についてです。

繰り返しますが、そんな教えは聖書にありません。

自由意志、という言葉すら出てくるかあやしい。

選べ、という言い方はちょいちょい出てきます。

でも思考して選択する能力がある、というのと自由意志がある、というのは違います。

その能力が絶対なものではないように、絶対の自由意志など、自分はないと思います。

イエズスは「何を食べ、何を飲み、何を着るのか」と思い煩うなと教えた。

「今日は何を着ようか」という日常的な選択の自由があることは誰も否定しない。

繰り返しになりますが、科学でも哲学でも宗教でも結論は出ていないようですが、行為(選択)の自由がある、というのと、絶対の自由意志が存在するかどうか、というのは別問題です。

何を着るか、という単純な選択さえ、天気、流行、店員さんが勧めてくれた、誰かが褒めてくれた、その日会う人にどういう感情を持っている(持たされている)か、などの縁に影響される。

まあWTが言うように、自分の決定を外的要因だけに負わせることはできない、というのはそうだと思います。アンタが造ってくれたオンナが、しかも割とすぐに食えっつったんでしょーが、という言い訳はできないことになります。

ただ見方を反転させれば、オトコはオンナに言われ、オンナはヘビに言われ、そのヘビはヤハウェが最も用心深く造ったというご丁寧な但し書きまである。ヒトの最初の意志決定(に見えるもの)に対する言い訳としては、ヒトの本質をついた至極まっとうなものとも言える。


これはルターの奴隷意志論争など、宗教者も形を変えて考えてきた問題です。

一般的な責任論としては、行為に対する結果は負わなければならないが、神の救いは非理性であり、「行為・行動の結果」とも何の関係もない、とするのがルターの立場です。

旧約や、プロテスタントでは外典扱いされている旧約文献では「選べ」「従え」「守れ」がよく出てきますが、ルターは、アンタらが理性だの自由意志だの言うなら、良い医者が、病状を気楽に受け取っている病人に、それ以外の方法ではそれを知らせることができない時に、不可能なことや嫌なことをするよう命じたり、禁じたりして、経験によって自分の現状を悟らせようとすることに例えたらどうなのか、と反論する。

論理的だの、理性的だの、という例えなら自己解釈に都合よく「理性」とやらで思いつくよと。


律法への帰順が意志や努力では成しえないゆえに、キリストは律法ごと磔にされた。

それは、意志や努力でエホバ様への忠節を保ったご褒美として、もうこれからは苦労せずあらゆる決まり事を守れる「完全なロボット」に改造してもらえるためなのか。(お断りしたい)

「選べ」という字句だけ抜き出し、自分の解釈に従って「特殊」から「普遍」を引き出し、神と人間のすべての言葉においてそれが成立すると判断してしまう僭越さを諫めている。


自由意志問題に限らず、WTの輸血禁止や誕生祝禁止など、あらゆる禁止や命令事項も「特殊」を抜き出し「普遍」にしてしまう、その僭越さから生まれているのでしょう。
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