宗教の真偽③

「業」が何かを真実にすることはありません。

嘘はどんなに忙しく吹聴しても真実にはなりません。

その内容に偽りが含まれているなら、それを宣伝する活動は逆に、正当に非難されます。

同じ論法で、三位一体などの「偽り」を広めてきたと、WTはキリスト教を非難してきたが、それは聖書釈義の問題なので「正しいか偽りか」を決定できません(選択はできる)。

ところが、JWの方は「1914年に生きていた人の中にはこの世の終わりを目撃する人がいる」など、時間の経過によって偽りであることが証明されてしまった聖書解釈を宣伝(ただの期待ではなく)してきたことに、弁解の余地がなくなっています。

彼らの組織マネジメント(統治体専制)や終末思想の基となる聖書解釈は破綻しています。あと解釈として残るのは「非三位一体&エホバというカタカナ」という彼ら独自の神観くらいですが、これも中身はそんなに変えずに、POPを付け替えて無理やり差別化しているだけです。

「地上の楽園」 と 「死後の天国」 (どっちも見て語れる人はいない)

「永遠の命」 と 「命は永遠=魂は不滅」 (手に入るタイミングの違い)

「生きたまま大患難を通過する」 と 「生きたまま艱難前に携挙される」

WT含む聖書主義者同士の論争は、それぞれの結論ありきで、こじつけ字句解釈の意地と意地のぶつかり合いとしては見ていて多少は面白いが、それ以上に得るものは特になく、もう出尽くした感もありつまらない。まだキリスト教のフィリオクェ問題のような、神概念の本質に関わる論争の方が奥深い。



「進化か創造か」もただの表層の議論。どっちでもいい。

「グウゼン」や「シゼン」による奇跡か、「エホバ」による奇跡か。POPを変えただけ。ジンカク=ペルソナかどうか?なんてそれこそ哲学談義でカミを定義する論争に興味はない。

前者のカタカナの方が困ったカルト支配に利用されにくい分、幅広く「選択」されている。選択する人の多い少ないで物事の真偽は決まらないが、「グウゼン」を信じる日本人も自然や命に感謝し、人の絆(縁=グウゼン)を大切する。しがらみもあるけどね。

自然=おのずからの、あるがままを「見る」感性は穏やかな受容を生む。何かのグウゼンらしきものが起こると、自分に都合がいいか悪いかで「エホバね~」「サタンよ」とカタカナ三文字を使い分けるのが稚拙なJW思考。

死生観や宗教観に真偽だの優劣だのつけて「自分が」正しいという優越感に浸りたい人もいる。

自分たちの聖書原理主義は棚に上げてイスラム原理主義を非難する人とはまた別の、とある福音系サイトは、多神観と進化論は聖書の福音を阻む、日本人に染みついた体臭とまで言い放っていた。言い回しはWTより潔く率直で、WTもそこから派生(変種)した思考の型を示す。

そんなこと言ったら排他的信仰(唯一絶対)は聖典至上主義者に染みついた病巣ですよね。売り言葉に買い言葉ですが、ちゃんと言ってあげることも必要です。

No.1やオンリーワン(唯一)を決めたい、生み出したい、という西洋型の自由競争や開発努力には優れたものを生む側面はありますが、宗教には持ち込まない方がいい。
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