執り成す者

組織と組織の対立、個人と個人の対立、組織と個人の対立、秩序と自由の対立、そういう対立のバランサーになる、というスピリットには魅力を感じます。プロテスタントの万人祭司(執り成す者)という概念にも通じるのかもしれません。特定の場所に固執せず、自分がいる場所に平和を作り出すスピリット。

それとは逆に、統治大好き人間たちを頑なにならせてきたのがキリスト教(聖書)至上主義です。カナンの異教徒殺戮のごとく、先住民のインディオ(キリスト教から見れば罪深い偶像崇拝者)を容赦なく征服したコンキスタドーレスは、当時の教皇から勅令を受けていた。

「新世界」(そこにいた先住民からは迷惑な呼ばれ方)の発見は、今や全世界がキリストにあって統治されようとする神慮と期待されたことも一因のようですが、先住民に対する酷い仕打ちの歴史を顧みて、インディオたちは教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問に際して書簡を渡したらしい。

『ヨハネ・パウロ2世様、われわれアンデスのアメリカ・インディオは、あなたの訪問を機に、あなたの聖書をあなたにお返しすることにしました。聖書は500年間、われわれに愛も、平和も、正義も与えてくれなかったからです』

機会があれば同じ手紙をJW統治体に渡したい人も大勢いるでしょう。「あなたたちの聖書(新世界訳)は、わたしたちに愛も、平和も、正義も与えてくれませんでした」

それをどう評価するかは別にして、ヨハネ・パウロ2世はカトリックの過ちに対して歴史的な謝罪を幾度も行ったことで知られています。JW統治体が輸血拒否令で失われた命、忌避教義で失われた家族関係、偽終末解釈で幼い頃から恐れを植え付けられ、普通の人生を送る機会さえ奪われた2世3世に対して謝罪する時は来るのか。まあ謝罪しなくても、少数派カルトとしての需要は細々とあり続けるでしょうけど。

逆に、謝ってしまうと「普通の宗教」になって需要がなくなりそうです。


ルター自身はキリスト者の自由と秩序への帰順には全く緊張関係がない(キリスト者はあらゆる者の上に立つ主人であり、ありゆる者に仕える奴隷である、キリスト者は誰にも服することなく、誰にでも服する存在である)ことに気づいていたが、彼にインスピレーションを受けて暴動を起こした民衆には、鎮圧する側に回っている。「言いたかったのはそういうことじゃねーし」ということだったのかもしれませんが。

再洗礼派の熱狂主義のように、WTのような勘違い聖書主義から派生した戒律熱心党カルトも、数百年前のルターにさえ諫められるでしょう。とにかくカトリックに反抗すれば何でもあり、ということでもなかったようです。


最近読むのがルター関係の本が多い、というだけなんですが、ルターのことばかり書くとさっさとルター派に改宗しろよと言われそうですが(汗)、ある人のスピリットに感化されることは、その人の言動を全面的に神がかったものと教祖にして奉り、その人の信者になるのとは違います。

前にも書きましたが、ルーテル教団さんもお認めのように、ルターも現代の感覚で読めば差別っぽい発言もしていますし、それは聖書(特にパウロ氏)にも同じことが言えます。


それでも彼が提示したのは、ガチガチの権威主義でも、組織か個人かの二元論でもなく、その緊張のバランサーになりうる神の義の「再発見」であった、という見方も知っておいて損はないと思います。

神の義とは、人の義を放棄することなのに、神の正義のもとに作った独自信条や解釈や規則の「正しさ」を主張する独善宗教(特にキリスト教至上主義の原理系、新興系カルト)の需要がなくならないのも、やっぱりどこかに「絶対に正しい」ものがある、それを求めてやまない人の性なのかもしれません。
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