自由と秩序

聖書を貫くテーマの一つ(私見です)は、自由と秩序、ルールと選択の緊張です。

JW問題も、これを端的に示す一つの宗教事象にすぎないでしょう。

組織と個人の対立と言ってもいいかもしれません。

旧約では、それが祭司と預言者の対立として描かれています。

組織と権威の象徴である祭司と、その専制と腐敗を糾弾する預言者は対立します。

組織のバックがない預言者は迫害される側になり、やがてそれにイエスとユダヤ教権威との対立が連なります。それは新約以降のクリスチャンコミュニティーでも繰り返されます。

聖霊は「組織」を通してのみ働くのか、それとも「個人」にも働くのか。

キリスト教?としての会衆の発足を予言していたとペトロが解釈したのはヨエル2章です。

『わたしは自分の霊をあらゆる肉なる者の上に注ぐことになる。あなた方の息子や娘たちは必ず預言する。あなた方の老人たちは夢を見る。あなた方の若者たちは幻を見る。そして、その日には下男やはしためたちの上にもわたしの霊を注ぎ出す』

下男やはしためにさえ霊が注がれて預言しちゃうんです。

組織も経路もへったくれもありません。カオスです。

その混沌は、オリジナル使徒たちが次々に死ぬにつれて顕著になります。

パウロは必死に「神は秩序だ!」と言い、預言するなら順番にね、解釈できる人がいないなら黙っててね、と指導しますが、まとまりはつきませんでした。

その混沌から形成されたのが、カノン(基準となる正典)です。

カトリックでは初めに教会ありきで、その教会が基準と定めたものがカノンです。

しかしそのカトリックは、やがて硬直化した秩序と権威で抑圧するようになります。

宗教権威の偽善に抗う人たちは個人主義やスピリチュアリズムに傾倒します。

聖霊は個人にも注がれるのだ!自由こそ真理だ!


それに対してルターは諫めた、組織でも個人でもない、聖書のみが啓示するキリスト=神の言葉「により」聖霊は語るのだと(だからルターはフィリオクエ問題ではカトリック側を支持した)。それは聖書という受け継がれた啓示を尊重しつつ、聖書に自由に接することも否定しない(ルターのパウロ解釈もお堅いスコラ神学からすれば新しい読み方だった)、カトリックとは対極に凝り固まってしまった聖書主義のことではなかったようです。
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