聖書のみ

「聖書のみ」の話になりましたが、Wikiや幾つかのサイトで、ルターの「聖書のみ」とは聖書を教会(カトリック)より上の、至上の権威とすることだ、と書かれています。

間違ってはいないんですが、前記事の「信仰のみ」とセットで考えないと誤解しやすいです。つまり「行為」をする、しないではなく、「信仰のみ」による義認です。

「結婚するな」とか「免罪符を買え」とは聖書に書いていない、これは誰がどう読んでも意見は割れません。行為として禁じたり、命じたりしている言葉はありません。

「輸血するな」「誕生日を祝うな」「15分でも奉仕報告を出せ」「タイトパンツをはくな」も聖書に書いてありません。

「こじつければそう解釈できないこともない」ありとあらゆる聖書の字面から無数の規則を作り、我々のルールはすべて究極の権威である聖書のみに基づいている!と主張して、それらの行為を命じる/禁じることが「聖書のみ」ではありません。むしろ真逆です。

ルターはカトリックの権威主義を批判しましたが、やみくもに秩序に反抗することや、再洗礼派のような熱狂主義を奨励することはありませんでした。

聖霊は「組織」を通して働くのか?「個人」にも働くのか?

JWは後者をごく部分的に認めますが、組織に反逆するなら聖霊への反逆と断罪します。

ルターはその両方に、否定または肯定の答えを出します。

それがキリストのみ、(キリストへの)信仰のみ、(キリストを啓示する)聖書のみです。

特定の場所か、それとも個人か、それは遍在か偏在かの問題にも通じます。なので彼の信仰義認は、その緊張を融和また調和させるバランサーとして、アウグスティヌスの三一に次ぐ「発見」とされていますが、この「聖書のみ」もプロテスタントによって、やがて当時のカトリックとは対極に凝り固まってゆく聖書権威主義へと再びスコラ化(彼は否定したはずなのに)されてしまいます。

それをさらにこじらせた、こじつけ聖書権威主義の亜種が、JWだと思っています。

あれをするな、これもするな、これをしろ、あれをしろ

従わなければ恵みを失うことになるよ?

実力行使(火炙り)をしないだけで、中世のカトリックより強権かもしれない。

聖書を「究極の権威」と言い、隠れ恐怖の本として使って支配(束縛)する。

世の法律や良識は中世より進歩しているので、それでかろうじて抑制されている。

法律にギリ違反しない懲罰しかできませんので。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR