キリストのみ

いろんなJW批判があっていいとは思うのですが。

JW組織は腐敗したが、「自分は」相変わらず正しい。

「自分の正しい感覚」からこの組織はそれてしまったのだ。

このブログもそうなんですが。

誰もが自分の意見や主張を持っていて、「正しい」と思うからこそ発信する。

ただ「絶対に正しい意見」など存在しないので、別の視点や見方もある、という当然のことを認められないJW思考そのものから脱却するのは容易ではないですね。

特に、JW教理の矛盾に気づいても「聖書は絶対に正しい」とかね。でも絶対に正しい聖書解釈など存在しえないので、結局は「自分の聖書理解」に頼っているだけになってしまう。

だからラッセルを初めとする聖書研究者も、まあ最初は悪い動機ではなかったのかもしれませんが、「正しい聖書理解」を追求する時点で、もうキリスト教の本質からはそれていたのかな、と思います。

聖書主義は、無数の宗派を生みます。宗派の数だけ解釈があるからです。

『わたしはキリストと共に杭につけられているのです。生きているのはもはやわたしではなく,わたしと結びついて生きてくださるキリストです。実際,わたしは自分が肉にあって今生きているこの命を,神のみ子に対する信仰によって生きているのです。み子はわたしを愛し,わたしのためにご自身を渡してくださったのです。わたしは神の過分のご親切を押しのけるようなことはしません。義が律法を通してであるなら,キリストは実際にはいたずらに死んだことになってしまうのです』 (新世界訳ガラテヤ2章)

キリスト教とは「キリストのみ」で、そのキリストを啓示しているのが「聖書のみ」です(ごく単純な事実)。まずキリストがあり、キリストへの信仰があり、「聞いたこともない者に信仰を持つか」というツールとしての「聖書のみ」なんですね。

いや、でも聖書が「絶対に正しい」のでなければ、その聖書にしか書かれていないキリストも信じることができないではないか、と言います。

いいえ、そんなことはありません。キリストは「初め」からいる言葉=真理=公理、我在りに対応する始原の、第一の観察者(聖書も、論理も、思考も、宗教も、物質も、精神も、高さも、深さも、次元も、今あるものも、来るべきものも、時間も、あらゆる認識可能な事象に先立ち、その存在によって他のあらゆる存在も認識=創造されるアルケー)なので、正典とされている現在の旧約新約の一字一句が無謬か=正しいか?なんて稚拙なことには、これっぽちも依存していないんですね。

えーでも「キリストのみ」だとしても、聖書の解釈が数多く存在するように、キリストについての解釈も人によって変わっちゃうんじゃないの、という人もいます。

はい、いいんじゃないですか。キリストへの信仰のみ、とはキリストについての自分理解を信じる、ということではないからです。それを悟ったキリスト者が魂で遺した文献は、もう「正しい聖書理解」のような視点で書かれていません。パウロも「あらゆるキリスト」が言い広められてうれしいです、と語っている。もし「正しいキリスト論」(そんなものが存在するとして)に関する知識の有無によって救われるなら、「キリストは実際にいたずらに死んだことになってしまう」でしょう。


ということで、ルターの「信仰のみ」の発見は、アウグスティヌスの三一の「発見」に次ぐ、融和と調和をもたらすバランサーとしての本質がありました。そのはずだった、らしいですが・・

「正しい聖書理解」の追及は、無数の「正しい自分(たち)=私(たち)」を生み出すにすぎず、ルターの「聖書のみ」とはそういうことではなく、あくまで「わたし」ではなく「キリスト」です。

『もし敵が聖書をキリストに逆らって持ち出すならば、私たちはキリストを聖書に逆らって持ち出そう』 (マルティン・ルター)
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