聖書を読む②

聖書が視点次第で真逆の適用ができる例を一つだけ。

このブログでも何度が言及したCOE主教のデズモンド・ツツ氏です。

南アのアパルトヘイトの発端は、アフリカーナーの選民思想です。

もともと南アフリカに移住していたオランダ系白人の住む地域がイギリスに征服される。イギリスの専制から逃れて集団移住する彼らは、自分たちを「エジプトの圧政から逃れるイスラエル人」に重ねて聖書を読むことで、独自の選民思想を意図的に発展させる。イギリス軍の追撃を受け、周囲の先住民に包囲されながら「約束の地」へと旅する彼らには、都合のいい解釈だった。

白人アフリカーナー(神の選民)と、黒い呪われた原住民たち(カナン人)という構図ができる。


それと真逆の視点で「聖書を読む」試みをしたのがツツ氏です。

彼は列王紀上にあるナボトの葡萄園の話を、虐げられる黒人住民に重ねて読んだ。

「先祖の土地だから」という理由でアハブ王との取り引きを拒んだナボトは、アハブの外国人ヨメのイゼベルに謀殺された。この解釈によって彼は、アハブとイゼベル(南ア政権)と、虐げられる黒人住民(ナボト)という構図を作った。

つまり、聖書のどの記述をどの視点で適用するかで、真逆の構図ができてしまう。

こういう事例はよくあります。聖書って便利な本ですから。


聖書には「正しい解釈」など存在しないが、こういう歴史の教訓から、どういう視点で読み、適用するべきかについては、一定のコンセンサスができつつあるようです。

それは常に弱者の視点で、憐れみと思いやりの視点から読まれるべき、ということ。


例えば以前に、30年前に排斥されていたことを絞り出すように告白した「研究生」のことを書きました。その瞬間に研究は打ち切られ、集会への送迎援助も禁止されました。

この扱いに絶望した「研究生」は集会に来なくなります。

そもそも排斥制度自体がどうなのか、という話は別にして、これも真逆の適用が可能です。まず「悔い改めにふさわしい業」が必要だ!という字句を引っ張り出すこともできれば、「放蕩息子」の譬えを引っ張り出して、苦しみながら王国会館に来たんだからその時点で迎えてあげるべきじゃないか!と主張することもできます。

どっちが「正しい聖書適用か」ではなく、どっちが憐れみと思いやりの視点で「聖書を読む」ことになるのか、は誰の目にも明らかでしょう。

「わたしは憐れみを望み、犠牲を望まない」とはどういうことなのか、JW統治体はいつか学ぶのでしょうか。虐げる側、統治する側の視点で読んでは絶対にいけない本なんですよ。


最近のも塔は、そっち側の視点(選民思想と組織統治)でしか書かれていませんからね。
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