聖書を読む①

聖書は読む視点次第で真逆の適用ができる。

その人の内面を映し出す鏡で、醜い人間が使えば醜い本にもなる。

聖書は人を変える?そんな簡単に人は変わりませんよ。

WTが変わった変わったというのは、外見や、行為や、単なる言葉遣いだったりする。

暴力を振るう人が暴力をやめたと言うが、人の傷つけ方が変わっただけで、相変わらず自分中心で、表向き穏やかな物腰と言葉遣いで他人の感情を踏みにじるJWもいる。よりタチが悪い。

麻薬をやめた人も、現実逃避できる別の幻想に酔いしれているだけとかね。

「何か」に逃げている、「何か」に頼らないと不安、という本質は変わらないんですよ。

ごく稀に、楽園に行きたい永遠に生きたい若返りたいではなく、キリスト教の本質である贖いと神の愛に魅力を感じた人もいる(別にJWでなくともよい)が、そういう人も、もともと愛情深い人が鏡のような聖書に映る神の愛(人の像)に反応しただけで、JWにならなくても、他の普通の宗教を信じていても、愛情深い人として生きただろう。

むしろそういう数少ない人格者たちも、JWになってしまったばかりに、その愛情や親切を同胞のユダヤ人=JWだけに限ってしまい、組織が命じるがまま理由も知らずに、組織権威が排斥した、というだけのサマリア人を永遠に忌避する訳です。


キリスト教では、愛情深い人をより愛情深く、利他的な人をより利他的に、そして醜い人をより醜く、頑なな人をより頑なに、力を求める人をより権力志向に「変える」ことはあるかもしれない。

だがWT解釈は人を美しくするよりも、醜くしている方が圧倒的に多い。もともと疑うことを知らない無学な人たちを都合よくつじつま合わせたWT解釈で煙に巻いて「聖書を分かった」つもりにさせている。組織には人の良さを利用される一方、家庭や職場では物分かりが悪い、頑固で進んで応じない、言葉遣いがそこそこ丁寧なだけで、中身のない独善的な態度を「エホバ様への忠節」だと勘違いする人間に作り変えてしまう。


ということで、聖書はそんなにコロコロ人を変えない。人の真実を映し出す。

「救われているかいないか」「新しく生まれているかいないか」という宗教解釈上の自己ステータスを変えることはあるかもしれない。パウロ書簡のように人格陶冶っぽいことも書いていない訳ではないが、それが聖書の奥深いテーマではないし、「暮らしに役立つ情報」や「自分を変える方法」みたいな自己啓発本が読みたいなら、迷わず本屋に行った方がいい。

道徳のお勉強や、家族や人間関係がどうたら、を教える本としてはおそろしくつまらない。

別に悪いことが書いていることもないし、大抵はごく普通のことが書いてあるが、現代の原理主義者が字句通りにやるとやばいことになる箇所もあるからね。忌避とか。

この宗教に関わってしまったばかりに、ただの新興団体の1つに残るか離れるか、なんてくだらないことで、ごく普通の家族、親子関係さえ失われているケースがなんと多いことか。
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