死海文書②

類似性があるだけでほらパクリだ、という安易な印象操作はやめましょう、が比較文献学の主流になっています。WTも都合のいい時は、類似性があるだけでほらバビロンだ、と言いますが。

キリスト教サイドの基本スタンスはネットで探すとおそらくこのあたりです。

http://mikio.wada.catholic.ne.jp/QMRN-nt.html

宗教なんて、独自性と類似性があって当然のような。

ただ残念ながら、それは聖書も例外ではないというだけの話です。

死海写本中の、ユダヤ教共同体文書と新約文書の類似性は最も熱い論争点で、キリスト教関係者が果てしない本文分析と解釈論争を繰り広げているようです。

まあ、日本人にはさっっぱり関係ないことですが。

類似を探したい人はそう見るし、独自にしたい人はそう解釈する・・・そういう「鉄と鉄の研ぎ合い」から徐々に「定説」とされるものが構築されてゆく。


ただ、中には解釈の余地がないほど酷似している箇所もあります。一例だけ。

『これは偉大な者となり、至高者の子と呼ばれるでしょう。エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え、彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして、彼の王国に終わりはありません』 (新世界訳ルカ1章)

『彼はこの地上で偉大なる人物となるであろう・・彼は偉大なる神の子と呼ばれ、その名で呼ばれるであろう。彼は神の子と讃えられ、彼らは彼を至高なるお方の子と呼ぶ・・そして、彼の王国は永遠につづく王国となろう』 (死海文書4Q246、神の子文書、と呼ぶ人も)

書かれたのは死海文書が先です。

これはもう類似ではなく、借用したと言われても仕方ないレベルの酷似です。もちろん、新約とはその性格上、旧約からたくさん「借用」しているとも言えるので、それが借用なのか、引用なのか、発展させているのか、は別にしても、旧約正典以外からの明確な引用がある、という可能性だけでもかなりの事実ですね。

以前に、メシアが神の子でありそれが人になって降誕する、という概念は旧約には見当たらないと書きましたが、旧約正典に含まれていない死海文書にその発想らしきものがある、というのは面白い発見でした。

さらに言うと、死海文書にはダビデ系のメシアを待望する記述がありますが、旧約正典ではメシア(マシーアハ)がダビデの子孫である「救世主」として、固有に結び付けられている個所はない、という解説を読んでほんまかいなと思って調べてみたら、本当でした(ダニエルのような黙示文学を例外とすれば、神に選ばれた者、任職された者として普通名詞的に使われている)。

他にも、神の国思想、山上の垂訓に見られる霊的教訓、これも旧約では明確になっていない神と悪魔、光と闇の二元闘争、などの類似(の可能性)が見つかっています。


以前に少し書いたナグ・ハマディ文書も含め、新旧約外典、ユダヤ教文献、初期キリスト教関連文書の発見・比較研究により、キリスト教が、当時の多様なユダヤ教宗派や種々の霊的思想の影響を吸収したり、弾いたりして発展したものだ、という事実が明らかになっています。

それが聖書の価値を失わせる訳ではありませんが、「現在の聖書」だけが特別で、絶対だ、という聖書崇拝者にとってはますます分が悪くなっていると言っていいでしょう。



死海文書も、ナグ・ハマディ文書も、研究者が生涯を費やすほどの対象です。その膨大な蓄積を本にまとめてくれて、読む側は数日で読めてしまうとは非常にありがたいです。筆者なりのスタンスはそれぞれなので、裏を取りながら事実を抽出する二次的な作業は必須ですが。

WTの答え探しと線引き作業を「個人研究」だと教わっていた頃が懐かしい。
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