神の休み

何のために全世界の罪(エゴ)を贖うべく、「神は死んだ」のか。

その贖いとやらに感謝しているかを、戒律解釈とその実践で争わせるためですか。

キリストに啓示される神は、自分の正しさを主張も、擁護もしない。

神でありながら神と等しくあることに固執せず、卑しむべき罪人として逆らいの言葉を受容し、己のみを崇拝せよと定めた宗教?の成れの果て、宗教裁判によって罪に定められ、磔にされることを選択した神が、自分の正しさを主張するために代わりの宗教を作り、その宗教に帰依するかどうかで選別し、そうしない人間を報復虐殺するんでしょうか。


「すべてのヒトに対応する贖い」・・すべての人に対してあらゆる者である、初めなる完全他者の自己放棄の真価は、「救われ(てい)るかどうか」という、自己意識や御利益を論じる神学にではなく、ヒトを贖いその霊を生かす、キリストによる永遠のバシレイアにあるのでしょう。

そのバシレイアは、ここに!いやあそこに!のように、言い争うものではなく。


その救いを自己利益や自己正当性の実現として語る人は、神を知るようになっていない。

業によって義を示すことに忙しい者たちは、神の休みに入れなかった。

業に忙しいマルタと、ただ座って主の言葉を聞いていたマリアの逸話は、「必要なものは一つだけ」と教えています。彼女が選んだ良いものは、彼女から取り去られることはありません。


ただの宗教団体をチョイスした程度のことを、誇る/後悔する必要もありません。そこから出る/留まるにしても、その選択を信じることをやめる人には、神の休みに入る約束が残されています。

宗教そのものを目的化してしまった当時のユダヤ教はキリストを退けたとはいえ、ユダヤ人に生まれたことを呪う必要も、ユダヤ教に改宗したことを後悔する必要もなかったようにです。宗教(戒律の実践)によって自分たちを義とする業を休む人には、神の休みに入る約束が残されていたからです。

その時に良いものを選択したのなら、そのきっかけでしかない団体が劣化しようが、その偽善が暴露されようが、いずれ衰退/消滅しようが、それがその人から取り去られることはありません。

宗教団体が業(営業活動)へと駆り立てるために作り出すステータスやつぎはぎ終末解釈は風向きのようにめまぐるしく変わっても、永遠の父には回転による影の変化もありません。


『わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』

『一人の人がすべての人のために死んだ、だからすべての人は死んでいたのである』
(パウロ)


『永遠のいのちとは、時の長さとはなんの関係もない。それはイエスが地上にあって生きられたいのちのことである。いのちの唯一の源は、主イエス・キリストである』 (オズワルド・チェンバーズ)
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