神の経路

買い物途中に、ふと見かけた教会に入ってみた。

礼拝の時間ではないが、自由に見て行っていいとのこと。

数人がロビーで談笑している。多国籍でインターナショナルな雰囲気です。

礼拝堂?に入ると、演壇には小さくて控えめな十字架が一つだけ置いてある。

暗がりの中で、その片隅に一人の女性が座っている。

おそらく、彼女にとっての祈りの場所なのだろう。

入ってきて話しかける人はいない。

これがWT会館だと「シマイどうしたの~?(実はそれほどの関心はなくて、関心を示しているかのような自分が大事)」とか、ここぞとばかりにチョウロウが「どうされましたか~シマイ(同上)」とマニュアル通りに話しかけてくるだろう。

息子の自殺・・(絶対神の裁きやら悪魔の餌食やら、罪悪感という刃を自分に向かせるWT原理解釈に心を病み、自殺を図る2世も現実に見てきたが)を思い出すと辛くて・・というWT親に対して、わざとらしく肩にタッチして二言目には、「ではJWリサーチガイドを使ってハゲミニナル情報を探してミマショウ」 という実演には笑ったが。


WT教理では「キョウダイシマイの声かけ」「チョウロウの励まし」「WTやJW.orgの文字情報」などの、人や文字情報の媒介が、エホバ様が信者たちに語りかけるメインの手段、祈りの応えとされる。ハンナの祈りや、イエスが教えたような、媒介を通さない個の祈りを強調すると、組織神オリジナルの御利益が分かりにくくなってしまう。


教会によってそれぞれだろうが、そこは「祈りの場所」として開放されているようだった。

キリストのみを道(経路)として神と静かに語らう場所。

何人かで「交わっている」人たちもいるが、特に話しかけようとはしない。

祈りの邪魔をしたくないのだろう。

組織という媒介(経路)を前面に出すWTにはない感覚。

どんなに信仰の篤い人でも、たまには人にも相談したい、ハゲマサレたい、ハゲミニナルものを読みたい、というのはあるとは思いますが、その「経路」は限定しなくていいよね。

石にさえ叫ばせる神は、なるものになる存在らしいので。


帰り際、備え付けの封筒に寄付を入れて受付の人に手渡した。

なぜか、あの女性を見てふとそんな気になった。

まだキリスト教からは解かれていないようだ。
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