グラフェー

類似性の話に戻ると、比較文献学による類似性の発見は、どっちがどっちを借用したという安易な結論に陥りやすい傾向もありますが、それとは別に、ごく単純な事実として、近い時代に存在していた宗教思想には似通った点がある、ということです。

それを謙虚に認める人は、自分の宗教宗派や聖典だけが唯一無二の超越啓示だ、という縛りから自由にされますが、JWは己以外の宗教宗派や聖典解釈はすべて悪魔が似せて作った偽札だと、根本主義の中でもずば抜けて過激なことを言います。


イエスが口述筆記を含め、何の聖典(と崇められるもの)も書き残さなかったのは事実で、自分が属するユダヤ教を反響版にして、その枠組みに留まりながら言質を与えずに(律法の一字も過ぎ去らない)、字句主義を転換させる(そのままの字句で本質的思考を真逆に裏返す)発想から、「彼」をユダヤ教律法権威主義者を苛立たせる覚醒者とする見方もあります。

牧会書簡(第二テモテ)にある「すべてのグラフェー(現在のビブリアではない)」に何が含まれていたかを確証する術はなく、ブログ初期の無知な頃は(今も無知ですが)旧約のことだと書きましたが、基本的にはそれでよくても突き詰めるとそんな単純な問題でもないようです。

WTが新約正典の根拠として、そこだけは絶対の信頼を置くかのように採用する証言をした初期教父たち(エイレナイオス、クレメンス等)も、現在の正典以外のユダヤ文献を「グラフェー」として引用している。

WT洞察は一箇所(それだけか)、第二ペテロがパウロ書簡を指して「グラフェー」を使っていると指摘するが、これが逆に第二ペテロの成立時期を示唆している、と解釈される場合もあります。

反対する者も多かったパウロ書簡が権威として定着したのは2世紀から、正統・正典論争の火付け役の一人となった2世紀のマルキオンも、ルカ福音とパウロ書簡を「聖書」だと主張した。



最新のも塔でも、ヘブライ4:12の「神の言葉」は聖書(グラフェー)のことではなく、それは「言葉」によって明らかにされ、形作られる神の目的のことを指していて、その一部が「聖書」(になったもの)にも記されているにすぎない(略述されている)、という記事があります。

神の休みに入る、という約束も神の目的の一部なので、その休みに入るために、モーセの律法を守ったり、エホバの是認を得るために他の業を行なったりすることもない、とあります。

TVイメージキャラ出演に忙しいハッピー☆統治体も意味が分かっていないであろう、こういう記事がさりげなく入っているあたり、まだ良心的な執筆者が残っている可能性をうかがわせる。

じゃあ、現在の新約含めて一字一句が神聖無謬の、唯一絶対の聖典として崇めなければ読む・学ぶ価値もない、となるでしょうか。そんな極端なことにはならないと思います。「聖書の神」というちっさい枠にはめないでほしいですね(そんな限定的な定義づけは聖書にもない)。

それよりはるかにちっさい「WTの神」を作ってしまった人たちもいますが。
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