偽作文化

キリスト教を含めた各種思想の類似を考察する比較文献資料も読むと面白いです。

といっても、類似があるだけでほら異教由来だ、というのは短絡的です。
(WTも都合のいい時は、三つ組みだけで異教由来だとか主張する)

盗作なのか、インスピレーションを受けたのか、も断定は難しい。

モノを作る、書く人間は、何かにインスピレーションを受ける。同時代に生きていれば同じソースや価値観からインスピレーションを受けている可能性は普通にあります。

聖書の土壌でもあるヘレニズム文化では偽作は普通に行われていた習慣です。

その人からインスピレーションを受けたのか(またはその人のスピリットを受け継いで書いたのか)、それともその人物の名を騙ってだまそうとか、箔を付けようという意図があるのかないのか、単純にその名前がその文化でごくありふれたものだったのか、さらにそれをペンネームとして使っただけなのか、はるか後代からは判断がつかない場合が多いようです。

だから「偽作」とか「偽名」というと響きが悪いですが、真筆か偽筆か、単純にありふれた名前の別人か、なんて結論の出せない後代の議論なので、そういう議論があること自体のみで、その文書の史的価値や内容の信ぴょう性が失われることはありません。

WTのように、原始伝承通りの著者でなければ「信じる」に値しない、偽作=意図的な偽物(本当にそういう可能性もゼロではないですが)と決めつけるのも極端な話です。

一例として、新約巻末の「ヨハネ啓示」を書いた「ヨハネ」も誰なのか分かっていません。その書自体も、それを書いている当人が「イエスの直弟子であるゼベダイの子ヨハネ」とは一言も名乗っていないし、それを伺わせる記述もありません。

WTが採用する「イエスの直弟子だった」説は、例によってかのパピアスを初めとした初期教父たちの連なる証言に基づく原始伝承にすぎないので、そんな大昔のことは証明も反証もできません(可能性を論じることしかできない)。完全に反証できないなら「信じる」ことも否定できまい、と意味不明なループをする人がいますが、証明というプロセスを経ていないものを反証はできません(間違ってさえいない)。

今でも、聖書の著者名を使ってブログを書いている人もいます。

自分を含め、今ブログ書いている人なんてほぼ「偽名」です。そういう文化ですから。

「偽名」を使って書く人が全部嘘を書いているとか、全部事実を書いていることもない。

取捨選択することは必要です。

「聖書」を細切れにして取捨選択している(そういう人もいます)という批判もありますが、原著の真意を洞察する(悟る)には史的研究や文献比較は必須だと言っているにすぎません。

そうやって得られた奥深い洞察に「神の霊感」を見る人は、そう結論すればいいでしょう。

断片的な字句を神の命令だと振りかざす底の浅い権威主義はカルト被害を生むだけです。
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