いわしの頭

いわしの頭も信心から、ということわざにあるように、宗教とは「信じる行為・拝む行為」のことで、あとは信じる対象として何をチョイスするのか、そしていわしの頭だろうが奇妙なJW解釈だろうが、「信じている」と言いさえすれば聖域になる、という考えが今も根強いですね。

そういうのって、もう古い宗教観だと思います。

これも伝統的な信仰を見下すリベラリズムの驕りなんでしょうか。見下す人もいます。

でもこれは新しいことでも何でもなく、イエスが教えた思想にも見られます。

イエスがキュコニス派の影響を受けたシニカルな哲人だ、というのもやや極端な主張です(共通する逆説的な要素などは見受けられますが)。

Q資料やイエスのオリジナル語録とか、というくくりも好きではありません。

でもマタイ5章から7章の、いわゆる山上の垂訓をまっさらに読んでみましょう。

「信じる」というアイデアはそこになく、冒頭の八福にも出てきません。

「言葉」であるイエスは、すべてを自明の事実として、またその事実を基に語ります。

その観察可能な自明の事実から何を悟るのか、それをどう生き方に表すのか。

その意味を悟り、行う者は岩塊の上に家を建てる者のようである、と締めくくります。

それとは対照的に「信じる行為」に重きを置く宗教観は、砂上の楼閣です。

嵐が打ちつけると、その崩壊は酷いものです。

「信じていた」ものの根拠が崩れ去ると、その信心も容易く崩壊する。

聖書に書いてあることを一字一句その通りに「信じられなくなった」(創造とか復活とか奇跡とか)からクリスチャンをやめた、という人はJW以外にもいました。それに対して「聖書を信じる」根拠を必死に提示しようとするのがJW布教です。自分がこれまで読んできたキリスト者たち、そしてまだ部分引用しか読んでませんが、前記事のオズワルド・チェンバーズの信念もそんな浅くて脆いものではないようです。

信仰や信心を 「信じる行為」 に置き換えてしまうと、人の判断であり、行為です。

何をチョイスするのか、その根拠は何か、という見かけの論証(砂)の上に築かれる。

自分のチョイス(これが正しい)やジャッジ(根拠がある)を信じていることに気づかない。

本当に何かが証明されるなら、もう意見は割れない、そこに選択も信仰も意味をなさない。

観察/経験可能な自明の事実から理を悟る人の価値観は、岩塊の上に建つ家のように、(宗教)信条というPOPやラベルの表記論争によって崩れ去ることはない。

「信じるかどうか」ではなく、その意味(中身)を悟る者 (マタイ13:23) でありたいと願うこの頃です。そういう視点での「個人研究」はこの組織では教わりませんでしたからね。

「信じるか信じないか」「従うか従わないか」という二元論をつきつける、教条主義・戒律主義の宗教宗派は、いずれ変革や衰退を余儀なくされるでしょう(と願いたい)。
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