余計な例え

「耐えられる以上の試練には遭わせない」 (コリント第一10:13)

これを本部付きの人がどこかの話か何かで橋の強度に例えていた。

橋を作った人は耐えられる重量(リミット)を知っている。

創造者も一人一人のリミットを知っている=A

だから生じるすべての試練は自分のリミット内のはず=B

だって創造者はリミット以上の試練を許されることはないから=Aに戻る

という相変わらずの循環論法。

まず人を橋に例えていいんでしょうか。モノ扱いですね。

橋はギリギリの重さに繰り返し耐えることで強度が増すことはない。

むしろ劣化が早くなる。

人をモノか、組織を富ませるための駒か、くらいに都合よく使われて早いと30代で燃え尽きるとか、原因不明の体調不良に悩まされる2世もいますね。

創造者の精錬に耐えられなかった脱落者決定です。

だって創造者はその人が耐えられる以上の試練は許さなかったはずだからね。

重い荷物を持っている人を見て、あれくらいの荷物ならあの人が運べるリミット内だな、と判断して助けるかどうかを決める人がいるのかな。人は神の像どころか、神の方が人以下ですね。


そして先週使われたも塔。

「終わりまで耐え忍んだ者が救われる」 (マタイ24:13)

さてこれも例えちゃいますよ?

「船が転覆したとします。生き延びるためには岸まで泳がなくてはなりません。岸まであと数メートルの所であきらめる人は、それよりずっと早くあきらめた人と同じ結果になります」

ヨブの記事でも書きましたけど、聖書的に耐え忍ぶって信心を失わない(神のみぞ知る)ことで、ヨブが目に見えて「何をしていたか」と言えば、悲嘆にくれて座っていただけですよね。

あと数メートルの所まで必死に泳いで「もうだめだ」とあきらめる人を、「あと少しだったのに残念だね~」と見捨てる神ですか。キリスト教って、荒波に放り出して自力で岸まで泳がせることで、その褒美としての救いを説くような、スパルタマゾヒズム宗教でしたっけ。


聖書はそれほど悪くないとしても、所々の字句から短絡的に連想するだけのWT例えが余計な邪魔をして、聖書やそこで描かれる神の評判を下げているようにしか思えないんですが。
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No title

聖書ってどうとでも適用できてしまうところが恐ろしいところですね。

まさに、両刃の剣です。

No title

でもなんか 考えてみたら宗教ってみんなそうなんじゃないですかね?

ああ言えば、こう言う。(笑)

JWは宗教の王道を行っているととらえることもできますね。

Re: No title

> スナフキンさん

そうなんです。

聖書は利用する者の本性を投影する鏡です。

そしていずれ書こうと思っていますが、JWはそういう意味での真の宗教(笑)です。
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