魂の故郷

初期教父オリゲネスはキリスト教の復活教理が、インドの賢者たちが唱えていた宇宙観=生成と消滅(死と再生のサイクル)に「共通の土台」を持つのではないか、との指摘に反論します。

「われわれが復活についての教えを唱えるのは、ケルソスが言うように、魂の輪廻転生の教説を誤解したからではない・・すなわち、魂は本性上非肉体的かつ不可視なものであるが、そのつどの肉体的な在り処で、その本性上その場所にふさわしい身体を必要とするのである。そもそも魂がそれまで担っていた身体は確かに必要不可欠なものではあったが、今や第二の境涯には余分なものとなったので、魂はそれを脱いだ上で、現在の身体を担っているのである。さらには、それまでの身体の覆いの上に、さらに純粋で澄んだ大気の天の場所に居るために必要となるもっと上等の衣を重ね着することになる」

もうこれ、そういうことですよね。後は読まれる方の判断にお任せします。

ただ、イエスが肉体のまま雲に隠れながら見えなくなり昇った「天」とは上方の別世界(魂の故郷)・・さらに純粋で澄んだ大気のある場所と考えられていた、そんな時代に抱かれていた願望なんですよ。

教会史家のエウセビオスもこれに続きます。

「胎児が地上に生まれてくるときには、定められた月数の時が訪れるやいなや、胎児はそれを脱ぎ捨てると、その後は光へ向かって進み、新鮮な空気を呼吸して、以後は人間という本性に与る者として数えられる。それと同じように、見かけばかりが完全な人間種族も、天にあるさらに優れた種族に比べれば、まだまだ子供であって、いまだに地上で懐胎されて、この朽ちゆくべき身体の皮膚を着せられている状態にすぎない」

そういうことのようです。

パウロが自らを「月足らずで生まれた子」と評したように、人間とは外面ばかりは「神の像」であるが、内面は愚かしい「みどり子」のようである、すべての罪深き人間も神の栄光に達することはなく、キリストの丈を目指して円熟=成長すべき、現世とは魂の修練(自己放棄)の場であり、とらえるべきものは今の命でなく「真の命」である、という思想にも通じるものがあります。

と考えると、神が現世の悪を放置しているのはなぜか、という疑問も論議もパウロは一切持ち出していないのもすっきりします。この世界とはそういう場所だからです・・(この世界は真の住処ではない、キリストが用意してくれる父の元にある住まい、真の土台を持つ都市へ、信仰の父アブラハムはそれを知らなかったがはるかに見て迎え入れたという霊的解釈)

初期キリスト教時代にはいろんな思想が混在していて、主流派が各種の異端思想を排除し、この宇宙と自然は本質として善であり、旧約含む「聖書の神」は常に万物を司る神聖な存在である、という一体性が確立されたアウグスティヌスの時代から神義論らしきものが始まります。

これをこじらせると、天=上方にある来世の命(JWでは来るはずの楽園の命)を夢見るあまり、現世における主の業を限りなく狭めてしまう(ひたすら宗教解釈知識の宣伝のみ)という、新約にも名残があるグノーシス的弊害が生じる事実は、一部のキリスト教関係者も認めています。

己の信念のままに福音を説く人は尊重しますが、生涯のあらゆる見込み(命を伝える可能性さえ)を教団のヒト・カネ集めのために放棄するよう仕向け、そうしない人間、トッケンを目指さない人間、宗教信条(単なるPOP)が違うという理由で「不信者」との結婚を断罪する、信者夫婦の出産さえ「布教や特権の障害」にしてしまうWT教化はとても福音などと呼べる代物ではない。


結論としては、聖書の復活思想は統一されたものではなく、それぞれの時代環境やスピリットの影響下にある人が、それぞれの願望や生死観を表現しています。

それを各自が受け取るままに願望の拠り処とするのはいいと思いますが、現世のすべてが「今の命」を試す悪魔の陰謀としか見えなくなる、黙示文学の独自解釈に比重を置いて「不完全で邪悪な世の滅亡」をひたすら吹聴するのはイエスのスピリットではないと思います。
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