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復活信仰

何人かのキリスト者の著作を読んで、命と霊を遺すことを人生の目的(と単純に明言する人はいないがそういう「スピリット」を感じた)と捉えている(と自分は読み取った)内容を書きましたが、すると聖書の復活信仰はどうなるの、という話になります。

やはりこれも、聖書の筆者がそれぞれの生死観や願望を書き綴っているので、統一した定義をはじき出すのは困難でしょう(もう統一、という言葉がなんか怖いしイメージ悪いよね)。

それは「矛盾」なのかという議論はナンセンスです。攻撃か擁護かのささいな違いだけで、「神の言葉なるものに矛盾などない!」という演繹前提の狭い土俵で押し合っているのはどっちも同じ。


さて旧約時代からいきます。

基本、旧約では死後がどうたら、という教条的な言及はありません。

願望ならいくつかの箇所で表現されています。

族長ヤコブ

彼は慰めを受け入れようとせず、しきりにこう言うのであった 「わたしは嘆きながら我が子のもとへ、シェオルへ下るのだ!」


ここではただ自分も死ぬ、とだけ語っているようです。我が子のもとへ、とありますが「嘆きながら」なので死後に会えるという思想は見られません。

ダビデ

もう死んでしまった以上、どうしてわたしは断食をするのか わたしはあの子をもう一度連れ戻せるだろうか わたしはあの子のところへ行こうとしているが、あの子はわたしのところに戻っては来ない


ここもあの子のところへ、ですが微妙なニュアンスの違いはありそうです。はっきり会えるとは言っていませんが、どこかの場所に「いて」、そこへ自分も行こうとしている、という感じです。

ヨブ

強健な人が死ねば、また生きられるでしょうか 私の強制奉仕のすべての日々、私は待ちましょう、私の解放が来るまで あなたは呼んでくださり、私はあなたに答えます ご自分のみ手の業をあなたは慕われます


WTが旧約でも復活が語られている、としつこく指摘する唯一と言っていい箇所ですが、ちょっと文脈を見るだけで↓のような表現があります。

樹木にさえ望みがあるのだから たとえ切り倒されても、それはまさしく再び芽を出し、その若枝は絶えることはない

自然界に見られる生命の再生(命は永遠に続く)、世は去り、世は来る、どちらかというと輪廻っぽいです。新約にあるような天界への超自然の復活思想と結び付けるのは困難です。


事実、パウロを含む初期キリスト教の復活思想は、ギリシャ人がもともと考えていた輪廻転生思想を焼き直したものだ、という可能性は当時から指摘されていました。

それも含めて新約側の復活思想については次回。
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