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存在証明

キリスト教関係の本を読み漁る過程で気づいたのは、キリスト教信仰は「絶対に正しい」と主張できる事実説明には依存していない、とするキリスト者が多いという「事実」です。

「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに、フィリポ、あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は、父をも見たのです。どうしてあなたは、『わたしたちに父を示してください』と言うのですか」(ヨハネ福音)

目の前にいる人が確かに存在するという証明(それも厳密には不可能)や、その人を親しく「知った」人にとって、その人がどういう人であるかの定義や証明が必要でしょうか。

イエスの教えは帰納でも演繹でもなく、事実証明を求める論じ合いには応じない。

アブラハムより前からエゴーエイミーなのです。

論理も根拠もへったくれもありません。

キリストは「言=ロゴス」そのものなので、その神性と永遠性は観察可能なあらゆる事象に先立っている、人の観察や思惟によって導かれるあらゆる原理や前提に先立っている、からです。

それを「発見」した、とされるのがアウグスティヌスです。

プラトンぽいカホリがします(笑)

「初めに言があり、言は神と共にあり、言は神であった」

三一論がギリシャ哲学云々言う以前に、新約にその要素がたっぷりです。

キリストこそ「見えざる神」の厳密な描出、完全なる、第一の、永遠のイデア?
初めからあったもの、わたしたちが目で見たもの、よく見てさわったもの=証明不要)

間違いなくプロスキュネオーの対象です。

それがキリスト(教)の本質というか、根幹となる公理のようです。


三位一体も「間違ってさえいない」ということになります(反証も不可能)。

それを知らずに三位一体は「偽りだ間違いだ」と騒ぐ人と、キリスト教関係者の論争は見事なまでに噛み合いません。同じ日本語をしゃべってはいても文法(公理系)が異なるからです。


三一性の枠組みは他文化にもあります(三つ組の神)。それが三一という観念の模倣なのか投影なのかは知りません。類似だけを指摘して「ほら異教由来だ」と言うのがWTです。

聖書と他思想の類似を指摘して「異教由来だ」と言うと怒るのにね。
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