演繹と帰納

エホバの証人思考は単純な帰納と演繹を組み合わせたものです。

A書の予言が成就した
B書の予言が成就した
C書の予言も成就した

<結論>聖書の予言はすべて成就する(外れた予言も将来の成就がある)

こちら側が帰納です。


すると「聖書の予言はすべて成就する(永遠に外れない)」がWTの演繹前提になります。

<前提>「聖書」の予言は(いつか)すべて成就する

<結論>ヨハネ黙示の千年王国は原始クリスチャンの期待外れに終わった妄想ではなく、これから成就する


帰納法には限られた観察や調査で誤った結論(前提)を引き出してしまう可能性

演繹法にはそもそもの前提が間違っている可能性

がつきまといます。さらにWT解釈の場合、帰納側の事実証明にそこから導出されるはずの演繹前提が利用される循環論法がよく使われていて、帰納の基になる調査・資料も超限定的です。

一応の今さらですが、原理信仰系と高等批評系のどっちも本を読み漁ってみても、残念ながら旧約の予言が事前予言であることを証明する裏づけ(傍証)はありませんでした。

作者や成立年代が不詳の福音書伝承が、イエスという人物をモチーフにヘレニズム思想(神の子降誕=そは我らはその子孫なり、モノゲネースの先在=不滅性など)と旧約伝承を組み合わせて形成されたのか、それとも一字一句が史実なのか、に白黒つける歴史資料も存在しません。



すると、世の中には宗教に限らず「絶対に確実」だと言える事実説明がどれだけあるのか?

となってしまいそうですが、それでいいんでしょう。

分からないことは分からないと素直に認めずに、自分のジャッジを「絶対に正しい」と感情的に思い込むことを信仰だと勘違いすることの弊害は、この団体から反面的に学ばされました。

社会通念として許容され、受け継がれてきた伝統信条や慣習を「偽りだ、騙されている」と騒いでは人間・家族関係をブチ壊す、さらには陰謀論をこじらせてしまうのもどうかと思います。

奇抜な独自信仰は構いませんが、棄教したら忌避する団体にアポなしでインターホン押され、「人間関係のストレスを改善するためのアドバイスを~」「自分にしてほしいと思うことは人にもしましょうね~」なんて説教されても困りますよね。
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