主の記念

イエスは「わたしの記念としてこれを行ない続けなさい」と言った。

ごくシンプルに、わたしのことを覚えておくために、ということです。

死を記念するように、とは言っていない。

旧約では、人間の罪深さゆえに贖罪の儀式を行なうことが中心のテーマになっているが、それが「アダムの原罪」なるものによる、としたのはパウロです。創世記では木の実を食べる行為が「原罪」だと明確に定義されておらず、それを食べることで「善悪を知る」ようになって追放された、としか書いていない。

そのパウロはひたすら「磔にされたキリスト」を伝えた。生前のイエスに会ったこともなく、福音書著者とは対照的に、イエスの人となりや生前の教えにそれほど関心を示さず、詳しく論じてもいない。

実際、彼はキリストの杯を飲むたびに「主の死をふれ告げてゆく」と語っていて、福音書とは少しテイストが異なります。イエス本人はというと「死ぬこと」をそれほど前面に出してはいない。

パンや杯が体や血を表す、と言ってはいますが、自分の体や血を食せ、という言葉を字句通り捉えた弟子が「つまずいて」離れていったという前例?もあり、この食事でのイエスの発話を居合わせた弟子がリアルタイムでどう理解したかは知りませんが、そんなに衝撃的でも悲壮感漂うものでもなかった様子です。

「イエスは、父がすべてのものを自分の手中にお与えになったこと、そして自分が神のもとから来て、神のもとに行こうとしていることを知って、 晩さんの席から立ち、自分の外衣をわきに置かれた」

「わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのですから。そしてまた、わたしが行ってあなた方のために場所を準備したなら、わたしは再び来て、あなた方をわたしのところに迎えます。わたしのいる所にあなた方もまたいるためです。そして、わたしが行こうとしている所への道をあなた方は知っています・・わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません。あなた方がわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。今この時から、あなた方は父を知っており、また見たのです」

むしろ、イエスが繰り返し強調したのは、父のもとに帰る(還る)ことです。

さらにあなた方のためにも場所を準備しますよと。

それは「どこなのか」と気をもむ弟子たちに、それを字面で「説明」する代わりに、再び会うときにあなた方はもはやわたしに何の質問もしないであろう、と約束した。

イエスの弟子たちは、質問することや怖れること、気をもむことから自由にされた。

なぜなら、目の前にいるイエスが「道であり、真理であり、命である」と悟ったからです。

その親しい弟子たちと、イエスは最後の食事を共にし、パンと杯をシェアした。

弟子でもない一見さんに、しかも「死」という不吉な言葉を使ってその食事会を大々的に宣伝しておいて、来てほしいけど食べないでねと、にわかギャラリーを集めるよう指示した様子はない。

「あなた方は,わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」

「父がわたしにお与えになった杯,わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」


別にその日にする必然性もない、WT解釈の一方的な説明会・・

ただの一人も手をつけず、主の杯を過ぎ去らせる者たち・・なんの記念なのかなぁ。
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