永遠の命

ますます新約から乖離するWT記念式・・

地上の楽園で永遠に生きる・・が今年のテーマらしい。

新約だけに出てくる永遠の命をそう解釈したいのなら自由なんですが。

新約を普通に読み直すと、最後の食事でイエスがそんなことを弟子に語った様子はない。

前にも書きましたが、イエスが証しするために来た真理とは、神は霊である、霊は命である、命は永遠である、に集約されると(今のところ)思います。新約のみで語られる永遠の命が、肉体やその機能が時間的にずっと続くこと、に結び付けられている箇所はないようです。

「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている」(ヨハネ3:36)

「わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、その者は裁きに至らず、死から命へ移ったのです」(ヨハネ5:24)

み子を信じる者はすでに永遠の命を持っている、その命に移されています。
その命とは何でしょうか。

「その命は明らかにされ、わたしたちは、父のもとにあって、わたしたちに明らかにされた永遠の命を見、それを証しし、あなた方に伝えているのです」(ヨハネ第一1:2)

「わたしたちは,み子イエス・キリストによって、真実な方と結ばれています。この方こそまことの神であり、永遠の命です」(ヨハネ第一5:20)

その命とはキリストであり、キリストによって神と結ばれている状態が真の命です。

何ものも、その命に移された人をそこから引き離すことはできず、その命に移された人にとって、最後の敵である死はすでに克服されており、恐れの対象ではなくなります。

「神はわたしたちを闇の権威から救い出し、ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました」(コロサイ1:13)

「パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ,世であれ、命であれ、死であれ、今あるものであれ、来たるべきものであれ、すべてのものはあなた方に属しています」(コリント第一3:22)

それで神は霊であり、霊は命(愛)であり、命(愛)は永遠である、とも言えるでしょう。

「わたしたちは,わたしたちを愛してくださった方によって,これらのすべての事に全く勝利を収めているのです。 死も、生も、み使いも、政府も、今あるものも、来たるべきものも、力も、高さも、深さも、またほかのどんな創造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを、わたしは確信しているからです」(ローマ8:28)

死を恐れる人は、「いのち」を単なる個の肉体機能や精神機能(意識や記憶)だけに囚われて(縛られて)考えることしかできない物質の(唯物的な)人なので、それらを「失う」ことが怖いのです。

とはいっても死は悲しいものですし、今の命を粗末にしてよいことにはならないと思います。信仰の前提に立つなら、神が与えてくれる定めのないフルコース・・次の料理が何か分からないからワクワクする、そして今、目の前にある料理をおいしく頂くことが感謝でしょう。

かつて非JWの同僚と人生を語り合ったとき、死んだ後は分からない、でも最後に言う言葉は決めている、『あ~楽しかった』・・そう言えることが自分の人生の目的、と晴れやかに語っていた。

聖書も、それぞれの箇所でそれぞれの筆者が自分の信仰や希望を表現しているので、それを読む現代人が、意見を割らずに到達できる解釈は存在しない。でもパウロによれば、キリストにおける神の命(愛)に移された人は、そこから引き離されることはありません。それがどういう形であれ、人の霊はそれをお与えになったまことの神のもとに還るからです。(伝道の書15章)

イエスも死を強調せず、むしろ強調したのは「帰る」ことです。

続きます。
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