永遠の父

『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、自分の目で見たもの、注意して眺め、自分の手で触れたもの、すなわち、命の言葉について、(そうです、その命は明らかにされ、わたしたちは、父のもとにあって、わたしたちに明らかにされた永遠の命を見、それを証しし、あなた方に伝えているのです)わたしたちは自分が見、また聞いたことをあなた方にも伝えます。それは、あなた方もまた、わたしたちと分け合う者になるためです。さらに,わたしたちのこの分け合う関係は、父との間、またみ子イエス・キリストとの間にもあります。それで,わたしたちは,わたしたちの喜びが満ちたものとなるようこれらのことを書いているのです』(ヨハネ第一冒頭:新世界訳)

おそらくですが、この赤字の部分をアウグスティヌスは、人間もまた、いつもすでに存し、前提されている自己意識において三性である一性を担っている、としているようです。

認識するもの、認識されるもの、その同一性(表現上の矛盾)となる認識そのものです。

父よ、と呼びかけられるとき、父とは、呼びかけたものは子であると認識するものであり、子からは父であると認識されるものです。

逆に、「わたしの愛する子」と呼びかけられるとき、子とは、呼びかけたものは父であると認識するものであり、父からは子だと認識されるものです。

これだけならただの父子関係ですが、それも分け合う関係という点では、すでに三一性を含有している、らしいです。分かったような分からんような。

しかし人間イエス受洗の際、その相互認識を生じさせたものは、DNA鑑定でもなく、戸籍上の父子関係でもなく、天が開けてはとの形(象徴)をとって下ってきたもの、聖霊です。

ラテン語では、母は常に確かだが、父は常に不確かである、という言い回しがあります。

子は常に母の胎から生まれ出ますが、だれが父であるかを決めるのはこの現代でも、「父」本人による直接の認知(宣言)であり、信頼(夫婦の)であり、愛(親としての)です。

キリスト教とは、人(間)性とは動物にはない、確かなる究極の父性への希求だと例証する宗教とも言えます。その認知により、WTが解釈する「一心同体」を超越する至福があると。

つまり、神の三一性はただの父子関係にとどまらず、父と子と、両者を愛しつつ結び合わせる聖霊との統一性により、この三つの位格が相互に完全に等しくなり、自己との関わりにおいては「ひとつなる神」であり、それは言葉では表現しえない父と子の抱擁である、という教えです。

認識するもの(愛するもの)、認識されるもの(愛されるもの)、その二者の関係を結びつけるものは認識(愛 ⇒ 第三の位格)です。

ひとつなる神の内にさえ永遠の差異が存する、その区別=他者性を包含する「ひとつなる神」だからこそ、その差異(分け合う関係)が統一を希求し、神的な愛の交わりを生じさせる。

それで神とは愛する者(父)であり、愛される者(子)であり、愛(聖霊)そのものです。

だからWT解釈では、常識的な範囲での(一心同体的な)父子関係の延長にとどまっていて、それはそれで「間違っている」訳でもない、分かりやすい解釈ですが、神的な三一性を受容する人は、そこに通常の父子関係や「正しいか間違いか」という人間側のジャッジを超えた、理性ではなく聖霊によってのみ享受しうる認知が生み出す至福を、キリスト教の根幹を成す「これはわたしの愛する子」という、とこしえの父の宣言に見ているのかもしれません。

霊による証(認知)はその宣言に呼応し、「子」であるとの自覚を生じさせます。

『神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。あなた方は、再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく、養子縁組の霊を受けたのであり、わたしたちはその霊によって、「アバ,父よ!」と叫ぶのです。霊そのものが、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供であることを証ししています』(ローマ書8章:新世界訳)
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