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永遠の言

久しぶりに三位一体について書きます。

繰り返しますと、三位一体を擁護するつもりはありませんが、表現上の矛盾と偽り感(笑)を強調するWT文献ではなく、キリスト教側、さらにできるだけオリジナルを考えた人に近い文献をまっさらに読むと、けっこう面白いこと(不謹慎な言い方ですが)が書いてあります。

以下の引用が示すように、神学上、「誰かが考えた」という表現は“ふさわしくない”とされています。WT含む逐語霊感説に立つ人が、「パウロが考えた」とは言わないように、神の三一性もあらゆる思惟に先立っている、という前提だからです。神学はその延長上にあるようですが、霊感説に立たない人が自由に聖書を読み、意見できるように、神学書を読むにもそれくらいのおおらかさがあってもいいのではないかと(勝手に)思います。

15巻にも及ぶ(らしい)アウグスティヌスの『三位一体』を読んだことはないのですが、とりあえず今まで自分が読み漁ったキリスト教書の中で、ぐっときた要約をしている箇所を引用します。


『その先達の誰とも異なり、アウグスティヌスは、神の三一性が認識の対象としては考えられないことを発見した。というのもこれは、あらゆる思惟と存在に対して、その源泉として先立っているからである。人間もまた神の似像として、その実存の最内奥において、つまりいつも意識しているわけではないが、いつもすでに存し、前提されている自己意識において、三性である一性を担っているのである。

私が呼びかけられる時、呼びかけられているのは、私だと気づくただそれだけの意識においても、私は、認識するものであり、また認識されたものであり、この二つを結びつける認識そのものなのである。

神の三一性とは、父と、父より生まれた子と、両者を愛しつつ結び合わせる聖霊との統一性である。この三つの位格は、相互に完全に等しい。なぜならこの三つの位格は、自己との関わりにおいては一つなる神だからである。それらは相互の間では、つまり相互に他なるものとの関わりにおいては区別される。

アウグスティヌスは、父と子の、言葉では表現しえない抱擁について語る。それは享受なしには、喜びなしには、愛なしには、ということは聖霊なしには存在しないのである。堕罪によって押しひしがれた人間は、神のかたちと僕のかたちとを自らの内で統合したキリストによってだけ、この真実の、完全な至福にあずかることができる。

しかし神の内にはこの幸いが存する。なぜなら神の内にさえ、永遠の差異が厳然と存し、この差異が統一を希求し、神的な愛のときめきをおこさせるのである』


えーと、なんのこっちゃよく分からないのですが、素人の感想を書きます。

「わたしと父とは一つです」

「わたしを見た者は父を見た」

「わたしの内に父がいて、父の内にわたしがいる」


これらは永遠なる父の「ことば」です。

「ことば」とは発せられた時点で聞こえるようになります。

人間にも記憶という、確かなようで確かでない、よく分からない認識機能がありますが、例えば何かの聖句を暗唱する人はその時点(定められた時)で、記憶というなぜか時に縛られない内的世界?に前もって潜在するものを、時間的な広がりのうちに展開することになります。

「ことば」であるイエスも受肉の時点で、聞こえるように発言されたことになります。

しかしその「ことば」は「初めからあったもの」です。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

続きます。
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