神の描写

だからと言って聖書を読んで、その直接引用に加えて「自分の言葉」で神を描写したり、説明したり、称賛したりすることはよくないとも言い切れません。できるだけ慎み深い方がよいとは思いますが、聖書の神を個人としても団体としても、解釈してはならない、書いてもならないというのも否定神学すぎる気もします。

ただ「神は憐れみ深い」とか「神は賢い」という表現もそれ自体は意味をなさない、というのがマイモニデスの立場で、それも分かる気もします。たかだかヒト風情が「神は賢い」なんて言葉にするのはおこがましいような。たとえ万人が「これは賢いやり方だ!」と納得する解釈が編み出されたところで、神にとっては愚かなんですから。

「わたしは賢人たちの知恵を滅ぼし、知能のたけた者たちのそう明さを押しのける」と書いてあります。賢い人はどこにいるのですか。書士はどこにいますか。この事物の体制の弁論家はどこですか。神は世の知恵を愚かなものとされたのではありませんか」(パウロ)

イエスが父以外に「善い」者はいない、パウロが「ただ一人知恵のある方」と語ったように、「善い」とか「賢い」を神に関して使用する場合に限り、それは人間が通常考える概念に限定されてはならない、そういう限定的な使い方で神を描写してもならない、ということです。

「神は生きている」とか「神は死んだ」も同じで、神がヒトの認識しうる生き死にを超越した存在とするなら、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」(イエス)であり、どんなに賢いヒトのちっぽけな生死観も及びません。ニーチェを読むと、彼はキリスト教権威やそのコントロールへの皮肉を込めて、かの名言を著したような気がします(間違ってたらすみません)。

でも信仰者にとってはなぜ「神は生きている」という類の表現が好まれるのか(聖書でもそのような表現が好まれている)といえば、それはそれらの表現によって想起される神的な存在への表敬であり、それ自体が神の本質について何かを定義する訳ではありません。

・・それはそうとして、自分としてはそんなに難しく考えなくても、ヒトの言葉による表現描写は子どもが書く父親の似顔絵程度、に捉えるくらいでいいと思います。

その絵が「正しい」かどうかをジャッジすることがナンセンスです。

どんなに下手で「間違い」だらけだろうが、その子なりの描写です。

それを全然似てない、ブサイクに書きやがってと破り捨てる親がいるでしょうか。

逆にマイモニデスの言葉を借りれば、言葉であれ象徴であれ、神に関して言えば、どんなに才能がある人が描き出す「完璧さ(と人の目に映るもの)」も、神に関しては欠陥です。

言葉による信仰表現や描写も似たようなものだと思います。

だから、宗教解釈を「正しいか」「間違いか」で裁き合う論争に興味はないです。

上記の立場からすると、似ても似つかない子どもの似顔絵レベルです。

でも、どんな似顔絵でも書いてくれた親は喜ぶんじゃないですかね。

そのつたない似顔絵を見て、実際の父親に会ったことのない人が「君のお父さんてキモイ、まじブサイクで魅力ないんだね」と間に受けるでしょうか。

だから「その解釈は神の特質を描き損なっている!」とどっちの似顔絵が上手いかでケンカするより、自分の書いた絵とは似ても似つかなくても、「あなたの神もわたしの神」だよね、同じ神を描こうとしているんだよね、と認め合うおおらかさがあってもいいんじゃないかな。
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