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わたしの神

ルツが語った「あなたの神はわたしの神」やパウロの説教を包括的な一神教みたいに適用するとキリスト教でも異端視されそうですが、その可能性に自分は魅力を感じます。もちろん、こんなことは自分が考えるまでもなくキリスト教神学ではとっくに議論されてきたことで、このページを見る限り緩和もされているようです。日本でもカトリック神父さんがお寺で説教する時代ですからね。

話を戻すと、人は何かの神を拝む時、何をもって「これはわたしの神」と自覚するのか。

JWは分かりやすい。「エホバ」なるカタカナ神聖トリグラマトン(笑)という特定の表記を使って書き、発声すれば「自分(たち)の神」です。表記が同じなら同じ神なのか、も議論はあるようですが。

特定の象徴に向かって祈る人もいます。でも「この象徴でなければ」と全面的な代理性や排他性を持たすと物神崇拝に近くなり、キリスト教的にも偶像崇拝です。それとも表記や象徴は便宜上で、その人の中にある固有(特定)のイメージが「その人の神」なんでしょうか。

すると前から疑問なのは、図象で描くことはだめで、言葉で描くのはなんでいいの、ということになります。「神に手がある」のは比喩、象徴として言葉で表現するのはいいのに、実際に手がある神を象徴として何かの形にするのはなんで?いけないんでしょうか。

WTは単純に「聖書に書いてあるから」で済ますでしょうが、中々に奥深い問題です。

実際、厳格なユダヤ教では言葉での描写にさえ否定的な立場を取る人もいます。

ユダヤ教で正典として認められている、特に彼らが最も重んじる「モーセ」に神の特性が描写されている事実はありますが、それに付け加えてはならないとする立場です。キリスト教ではそれに「神の栄光の厳密な描出」である子についての直接記述が含まれるでしょう。

聖書の霊感説をどう捉えるかは別にして、聖書を信仰の典拠とするならそれは正論だと思います。つまり、自分たちの解釈やイメージは聖書に基づいている、というのはただの詭弁で、その実は、聖書以外の文書、印刷物、特定の団体の解釈や説明に全面的な排他性を持たせる「神のイメージ」を描くのは潜在的な偶像崇拝の危険があります。

つまり言葉であれ、象徴であれ、いかなる人によって形作られる「神のイメージ」や「神の描写」も神そのものには到底なりえない、ということです。

「われわれにとって完璧なものは神からすればこのような種類などではなく、神に関してはすべて欠陥であるということをわれわれに教えるためである。こうした属性のなかで何を完璧であると想像しようと、それは神からすれば、もしそれがわれわれにとって完璧なものと同種類であるなら、欠陥となろう」(マイモニデス:『迷える人々のための導き』)

マイモニデスは、タルムードは言語的表示の否定を教えている、とする立場です。マイモニデスについてはも搭1995年にかなり好意的な特集記事が書かれていますが、皮肉なことに、それ以降のWT印刷物に覚える違和感がこの文献で指摘されていました。

「わたしたちの神ってこんなにすばらしいんです!」「こんなに非の打ち所のない完璧な神様なんです!」といくら描写しようが、言葉で神の賛辞を長々と続けることは神の偉大さを言い尽くす試みに思われても、それは不適切(WT的には“ふさわしくない”)とされています。

WT解釈がどんなに神を「擁護」しようと、その解釈は「欠陥」だらけです。どんなに「完璧な説明」と思い込んだところで、勝手に想像したところで、神に関してはすべてが欠陥です。

その慎みを忘れ、自分たちの解釈こそが「唯一完璧なる神の説明」と驕る彼らは、「エホバ」という表記の神を賛美しているようで、自分たちの手前味噌解釈やそれを宣伝する印刷物、さらにそれを生産する施設を best place ever!と高め、賛美しているのではないか、という違和感です。
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