人格的存在

人格とは何でしょうか。神は人格的存在デアル!という文言にやたらと固執するWTの方が、実は三一のペルソナに引きずられているのかもしれません。三一論の土俵にどっかり上がりこみ、その字句的な「不可解さ」や「感覚的矛盾」を“偽り”だ!と騒いでいます。

時代錯誤の道場破りみたいなもので、それぞれの流儀流派で尊重しあいながら精進すればいいのに、どうしても真偽や優劣がつけたくて仕方ないのか、わざわざ他流派の道場に押しかけてケンカを売り、一方的に勝ったつもりで去っていく議論をネットでもよく目にします。字句的三一論者にも似たような傾向はありますが。

そもそも、聖書は「人格」なるものを定義しているんでしょうか。

考えたり、しゃべったり、感情表現できる存在が人格ですか。ヒトが人格的存在だ、と言うのは、魂に人格があるんですか、脳に人格があるんですか、目には見えない、体の特定の部分には依存しない精神性や個体意識の総称が人格ですか。生物学的には似たような機能で生きているペットもヒトの言葉を多少は理解し、性格や感情表現に個体差がありますが、それは人格ですか。

自分は神が「人格」的な存在だ、なんてあまりに畏れ多くて言えません。

「わたしの魂は深く憂い悲しみ、死なんばかりです」

悲しんでいるのは「わたし」ですか。「魂」ですか。

「神の聖霊を悲しませることのないようにしなさい」

悲しんでいるのは「神」ですか。「聖霊」ですか。

しゃべったり悲しんだりするのが人格なら、聖霊も語り、悲しみます。

WTは聖書に書いてあることは字句通り信じると言いながら、常識・経験・理性的感覚をより重視するので、「人格的存在が複数の実体に同時に宿ることなどない」とか、「遍在するものに人格など(普通は)ない」など、そんな教え(定義)が聖書のどこにあるんだ的な主張をします。

だから悲しんでいるのは人格的存在なる「神」であり、「聖霊」はそれを伝達するエネルギーか波のような非人格的な力と解釈します。自分はそう解釈したい、自分にはしっくりくる、というラーメンの好み程度の話ならそれはそれでいいのに、わざわざ他宗派の解釈を“偽り”だ!と騒ぐから叩かれるんでしょう。

自分はそこ=“人格的”かどうか、に意地でも区別をつける必然性を感じませんし、そんな抽象感覚的・哲学的議論で神を定義する論争に興味はないですね。

神なるものの定義に、ヒトが正しいだの偽りだの騒いでどうすんだ、という感じです。せっかく聖書では“神”が、「自分はなるところのものになる」と無限の超越性と可能性を宣言しているのにね。
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