信仰の別名

はるか昔の記事になりましたが、信仰の定義?の続きです。

そんなの人それぞれでしょうが、自分が好きなのは↓のような告白です。

この“信仰の説明”が「正しい」と主張はしないので論駁は不要です。自分はこういうラーメンが今はおいしいと感じる、けっこう好きかな、程度のことですので。

ちょっと長いですが引用します。

『真理とは、こうして無限と直面し無限によって貫かれた無限性の情熱をもって、客観的に不確かなものを選び取る冒険にほかならないのだ。神をみいださんとして私は森羅万象を観察する。とそこには、全能と知慧がみられるが、しかしまた同時に私を不安と混乱のなかに陥れる多くの夾雑物も目にとめるのである。これを煎じ詰めて結局残るところは、客観的不確かさである。だがまさにそれゆえにこそ内面性はこの客観的不確かさをば、無限性の情熱の全てを傾けて受けとめるからである。例えば数学上のある命題に関してなら、客観性は保証されている。しかしまたそれゆえにその真理は主体にとってどうでもよい真理なのだ。だが真理を右のように規定するならば、それは信仰の別名なのである。冒険をぬきにして信仰はない。信仰とは内面性の情熱と客観的不確かさとの矛盾をそのまま受けとめることにほかならない。いな、その矛盾そのものなのだ。もし私が神を客観的に把握できるなら、私は信じてなどいない。だがまさしくそれが出来ないからこそ、私は信ずる所に追い込まれるのだ。そしてこの信仰を貫きとおすためには、私は客観的不確かさを眼前に見据え、この客観的不確かさの七万尋の深淵の上を漂いつつ、しかもなお信じるという冒険に絶えず身を曝さねばならないのである』(キルケゴール:著作選集)



前にも書きましたが、不可知論というと、どっちつかずの空しい哲学だとWTでは教わりますが、不可知性に対する真摯な受容と奥深い悟りが情熱的な信仰の土台となる場合がある、というのはおもしろいです。

客観的不確かさを前にして、信じるのをやめる人と、信ずる所に追い込まれる人、そこに信じる人と信じない人との質的一致の可能性を感じます。

誰が、何が、どっちが、どの信条が、どの団体が正しいのか、という終わりなきエレンコス(論証)の勝ち負けによる信仰とは対照的です。どっちの信仰が「正しい」のかはジャッジしませんが、そういう信仰の人が、「信じない人(神や宗教を信じても“自分と同じ神・宗教”を信じない人含む)」と口先だけでなく本当に分かり合う、認め合うことは永遠にないでしょう。
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