終末的道徳論

飽きたのでしばらくスルーでしたが、ここ最近のも記事が面白い。
何が面白いかというと、その必死さ加減。

数々の腐敗や汚点を乗り越えてきた伝統的教会とは違い、「完全に近い」「唯一無二である真の」組織を謳って信者を強力にコントロールしてきた急進的小集団なので、その幻想が崩れると意外な脆さをさらけ出す可能性もあります。

ということで、今週のも記事。

「世界の状態は今以上に堕落してゆく」(6節)と悲観を煽る姿勢は変わらない。

でも彼らが期待する程、最近の世界情勢は悪くなってくれません。
そうならない言い訳らしきものが、次の7節です。

「そうした状況になれば、聖書に対して懐疑的な人でさえ、聖書予言が成就していることを認めざるを得ないでしょう・・ですから・・終わりが近いことを人々が認めざるを得なくなるほど極端に悪くはならないでしょう」

聖書に対して懐疑的な人が聖書予言の成就を認めるようになるのは、何かいけないことなのか。聖書に大半の人が認めない、と書いてある通りに認めてほしくないんでしょうか。ニネベが宣告通りに滅ぼされたなかったとふてくされ、神に戒められたのはヨナです。

サタンは大いなる怒りで暴れつつ、極端に悪くしないよう手加減するみたいです。または「滅びに至る広い道」という自分の宣言通りに人類を虐殺することに固執するイエス様は「あまりやりすぎるなよ、虐殺計画がバレるだろ」とサタンをけん制するのかな。

WTが終末予兆の平行記述とするヨハネ啓示6章では、「地の四分の一に対する権威が与えられ、長い剣と食糧不足と死の災厄で、それをコロスため」とあるんですけどね。愛する主の再臨を待ち焦がれるあまり、ローマ世界への憎悪と厭世観からヨハネ信者が少し言いすぎたのかもしれません。

年間数億人に投与され、その命を救っているというワクチンを開発してノーベル賞を受賞した大村氏は、聖書予言の成就を阻む不信心者か、「極端に悪くならない」ようバランスを取るための、光の使いを装う悪魔の手先か。

やや同意できる点はあります。

「終わりが、自分が生きている間には来ないと考えるのは、正しいことではありません」

それが「正しい」のかどうかは知りませんが、イエスの教えは終末的な道徳論とも呼ばれ、常に「終末が近い」ことを前提にしての教え、というのは間違っていません。

イエスの時代から1000年経とうが、2000年経とうが(今このへん)、3000年経とうが、神がいつ何時でも介入しうる、人は創造者の前に明日にでも(ルカ12章)言い開きが求められる、という命題を受容することで自らをへりくだらせ、律する教えです。目先の世界情勢が良くなる、悪くなる、でいちいち右往左往する教えではありません。

それは他者を脅す、他者に要求する、他者を裁くための終末思想ではなく、そのような姿勢は山上の垂訓で何度も非とされています。たとえ自分が対象でも、恐怖によって自分をコントロールし、心身や生活を削る宗教マゾヒズムでもありません。

常に緊急感を抱かせよ、という大義名分のもとに嘘のタイムリミットを塗り重ね、悲観を煽って自宗派の洗礼を受けない者は滅ぼされるという脅し吹聴は、聖書の神を貶める宣伝でしかない。
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