信仰とは

WTの模範解答 ⇒『信仰とは望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です』(パウロ:新世界訳)

「保証」とか「論証」という単語はWTが大好きです。

『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』(新共同訳)

大分、雰囲気が違いますね。

パウロが書いたこの断片的な字句だけをもって、これこそ真正なる信仰の定義だ、とするのはキリスト教でも逐語霊感な人でしょうが一応、付き合ってみます。

保証された期待・・ヒュポスタシス(ギリシャ語)

⇒ WT洞察によると(所有の)権利を保証する商業文書に使われたとこともあるとか

明白な論証・・エレンコス(ギリシャ語)

⇒ 主に反駁・論駁する過程やその行為、問答のこと(らしい)

ということで、パウロの宣教には「ことば」そのものだったイエスとは違い、論証や論じ合いを好む特徴があります。たとえば、このブログでも書いた↓のような言説です。

『家はすべてだれかによって造られるのであり、すべてのものを造られたのは神です』

パウロがこれを「神の存在証明」として語ったのかは知りませんし、科学と論理学が飛躍的に発展した現代でこれを「神の存在証明」とするのはルール違反、というか穴だらけな訳ですが、こういう字句を好むWT信者は自分たちの信仰も確かな証拠や論理に基づいている、と思っています。

いつからをもってキリスト教神学の始まりとするかは意見が割れるようですが、自分はその礎を残したのはパウロだと思います。

論理や証明による「正しさ」を希求する神学は中世をピークに衰退し、ゲーデルさんがそれを(間接的に)終わらせたという人もいますが、WTは独自の原理解釈でそれを焼き直しています。

『あらゆる事柄に対する完全かつ自己矛盾のない説明となる、それ自体で完結している論理体系の探求は、必ず失敗に終わる』(理論物理学者ポール・デーヴィス:も塔6月号での引用)

↑を引用した執筆者は、自らのWT解釈がいずれ破たんする(もうしてるか)ことにもがっつりあてはまる、のに気づいていないのか、実は気づいてほしいのか。

エレンコス・・反駁や論駁に終始する解釈論争(それが神学初期~中世の歴史でもあるが)、それらの論争での勝利(と思い込める主張)がいまだに原理主義者の信仰の土台となっている。

「地球が丸い」という事実が信仰の対象にはなりえない(もう信仰の余地がない)ことは分かっていても、そのちょっぴり?前の段階、つまり、かなりの程度、確からしいと思える論拠や証拠があり、強い蓋然性があると自分がジャッジできる(たとえ多数意見を相手にしても自分は勝った、または正しい、と一方的に体感できる)状態、が彼らのかすかな信仰の余地なのです。

え、「正しい」から信じるんじゃないの?という視点しかないWT信者以外の人にとって、客観的合理性のこの時代、信仰とはどういう位置づけなんでしょうか。

続きます。
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