愛がある

あなた方の間に愛があれば、それによって人々はあなた方がわたしの弟子であると知る

これは、第三者である「人々」がそう知る・そう言う・・ということ。

何かの団体が「自分たちの間には愛がある!」と自己言及することではない。

イエスは「あなた方は世の光です」「あなた方は地の塩です」など、「あなた方」という言葉を使っているが、何かの新興教団を興そうとしていたというより、自分の教えを聞く弟子たちが複数人いただけのような気がします。

イエスに倣うなら、「属している」国や会社や団体や自治体や宗教背景や文化民族を超えて、その人(人たち)はクリスチャンとして知られる、ということかと。

教義解釈の白黒で論争し、それぞれの独自性や正当性を主張する団体ごとに、どの団体がナンバーワンなのか、という敬虔競争を煽る意図がイエスの教えにあったとは思えない。

最近のも搭でも、解釈の破綻が収拾つかなくなっているせいか、人を惹きつけるのは解釈じゃなく愛だ、愛がこの組織を美しくする、と開き直っている。愛を叫ぶのは別にいいが、それを団体や組織の優劣や真偽をジャッジする手段に利用するなよと言いたくなる。

この団体を経験して思うのは、イエスの教えは聞いたその人が行なうよう意識するものでしかないのに、その教えを徹底的に「団体ごと」で適用することの弊害です。「愛があるかどうか」が裁きや評価や区別や優劣の基準にされてしまう、という本末転倒っぷり。



どの団体なのか、どの団体が一番なのか、という団体探しが始まる。この団体にはかなり愛がある、この団体は他に比べて愛が少ない、と裁く(評価する・比較する)ようになる。

何かの団体に入った後も、ローカルグループごと(JWでは会衆と呼ばれる)に、この会衆は愛がある/ないとか、前の会衆/他の会衆に比べてどうとか、全信者の手本となるべき巡回さんを筆頭に、問題探し目線の観察と情報収集という名の噂話に基づく評価に余念がない。

「真の団体に入ったのだからこうあるべきだ」「真の団体に入ったはずなのにこんな扱いを受けた」と、期待するようにもなる。

指導する側は、「真の団体に入った者はこう振る舞うべき」「真の団体に入った者にはその評判に資する責がある」と、要求するようにもなる。

他者に要求し、他者から要求され、裁いては裁かれ、期待しては期待される。

その期待を裏切っては裏切られる。

真の団体とやらに相応しくない自分を責め、相応しくない他者の言動に憤る。

自分を責める人にはまだ救いはあるが、自分は常に相応しいと高ぶるパリサイ人も多い。

もっと愛されたいのか、集団内で愛し愛されているという団体意識を誇りたいのか、もっと「愛がある」団体が提示されれば移籍するらしいが、自分の団体がナンバーワンだという選民意識が刷り込まれると、あらゆる事象や情報をその揺るがぬ前提ありきで解釈するようになる。

真の団体にあってはならない何かを見知ってしまった者には緘口令が敷かれ、他の団体なら偽りの宗教と断ずる口実にせよ、この真の団体だけに関しては人の不完全さとして見過ごせと言う。

精神を病む人、病ませる人、原因不明の体調不良に悩まされる人が後を断たない。

集会では真の幸福とやらを装う作り笑いと真の団体とやらに相応しい立ち振る舞い。

そんな負の連鎖を生む大仰な自己言及看板はそろそろ降ろす頃合だ。

自ら降ろさなければ、そんな見せかけの白い外衣は剥ぎ取られるよ。

もうメディアはサタンの妨害工作とか言えるレベルじゃない。
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