救わない神

だから神はほとんどの人が御利益的に考えるような意味では救わない。

パウロによれば、生死も、善悪も、患難も祝福も、万事が益となる信仰が救いです。

救いとは単純な生死や善悪や御利益で量れない。そういう「救い」なら、信じたのに救われない人も数え切れない程いる。この世で救われなければあの世(天国か楽園)がある、ウチの神様は拝んでは一切なし、他の神様を信じるよりお得だよと、商売じみた客(信者)の奪い合い。

そんな「救う神」を信じるから救われない人をこの団体でもいやになる程見てしまった。本人は救いのためと必死にすがり自分を打ち叩く。訳分からず打ち叩かれた2世の傷はさらに深い。


キリストをさえ見捨てた神、自分を救わなかった救い主、を受容することが無敵の救いとはまだ言わないが、とりあえずは人類の99.9%以上を大虐殺する史上稀にみる偏りまくりの「救う神」を宣伝しての客寄せはそろそろやめた方がいいかもしれない。

捨てる神あれば拾う神あり・・という宗教観?に通じるものもあるが、キリストの磔にある力とは、究極に捨てられた状態、エリエリレマサバクタニ(神よ、なぜあなたは私を捨てたのか)と心底から訴える時に、その人は救われているという逆説にある気がします。

神はほとんどの人が考えもしない、救われているなんてだれも、これっぽっちも思わないな状況に置かれた罪人を、傍目にもご立派な言動や服装をしているとは思えない人を、捨てられた人、裁かれた人、痛めつけ放り出された人、蔑まれた人を対価なくして贖い、救っているという。


「自分の魂を救おうと思うものはそれを失うからです。しかし、だれでもわたしのために自分の魂を失う者はそれを救う者となるのです」

救いとは宗教活動・戒律遵守・人格陶冶に基づく宗教的確信ではなく、救われている、救われるだろうと思っている人ほど救われないと、イエスは何度も警告した。

パスカルの賭けのように、死後の命がある「かどうか」、神はいる「かどうか」、どっちも証明も反証もできないなら、神様を信じる方が(賭け、つまり損得勘定で言えば)合理的だよね、という自己幸福救済型の宗教観も・・まあいいですが。

でも、その願望と死の恐怖に付け込む宗教に支配されると、“救い”ほしさに我が子を虐待まがいのしつけどころか、↑の句を輸血拒否に逆利用して見殺しにできる、救われるに「相応しい」規準から外れた者を痛めつけて放り出し、血を分けた家族でも一生忌避する・・まさに生きながら魂を失った人間にされてしまう、その注意喚起は必要かと。
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