最後の敵

人が死ねば考え(意思)は滅び失せるが、永遠の霊はその源に還る。
― 詩篇146編、伝道の書12章

風になる、星になる、天に行く、直感的な言い方はいろいろあるかもしれないが。

そこに~わたしは~いません~死んでなんか~いません~

「人が死ねばまた生きられるのか」(ヨブ)

遠い昔から信仰者が求め続ける答え・・死後の命はある「かどうか」

キリスト教の優越性という表現は使いたくないが、もしそれがあるとすれば、ヨブもまだ見ていなかった「永遠のいのち」(ヨハネ第一)を見て、知るようになったので、もうその問いが意味をなさなくなったことかもしれません。

「死んだ者ではなく生きている者の神(死んでなんかいません)」を、聖書にある何がしかの復活・・身体的な死の対義として再びのを(命ではなく)与えられること(コリント第一15章)を信じる人にとって、滅び失せた意思や記憶がそこに関わるの「かどうか」は知らない。

それが輪廻だと言うつもりもない(聖書の復活は一回的)が、その「かどうか」にこだわる必要もないし、こだわり続ける人を罪は死を伴っていつまでも恐怖の王として支配する。

『私が不義において孕まれたとしたら、母が罪の内に私を胎内に養ったとしたら、神よ、一体どこで、主よ、あなたの僕である私はどこで、また、いつ、無垢の時があっただろうか。いずれにせよ、その時期のことは省くことにしたい。実際、まったく記憶していない時期が、今の私にとって、どのように関わるというのか』(アウグスティヌス『告白』)

ヘレニズム霊肉二元論や魂先在の概念はアウグスティヌスが西洋神学に取り入れたという見方が一般的?らしいが、そんなこと言ったら博学なパウロの書簡にもそれを伺わせる箇所は結構ある。同時代の、やはりギリシャ思想に通じたアレクサンドリアのフィロンのようなヘレニスト(ギリシャ語を話すユダヤ人:使徒6章)たちは、その呼称のごとくすでにヘレニズムの影響を受けていた。

WTの言う通り、ヨブを含め旧約側のネフェシュに先在の概念はないのはそうでしょう。

『わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである』(パウロ:ガラテヤ2章)

WTが範とするヘブライスト・・エルサレムを権威とするヘブル語を話すユダヤ教イエス派(⇒ ヘレニストのヘレニズム化とは距離を置き、パウロの宣教を尊重しながらも一線は画して割礼や律法の遵守も続ける)も、どこまで“原始ユダヤ教”の思想を保っていたのかよく分からない。

無垢という、汚れなき善性への回帰・・その憧れはJW願望にも共通している。

でも残念ながらアウグスティヌスが結論付けたように、「人には殺せないプシュケー」(イエス)があるとしても、それに先在がある「かどうか」を記憶で語れる人はいない。

生きながら死(意識の喪失)の恐怖に囚われる、神のようになったヒトの最後の敵。

その最後の敵に打ち勝てば、その敵は無に帰せしめられ、敗北は勝利になる。

「死よ、お前のとげは、お前の勝利はどこにあるのか」(パウロ)
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR