スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

和解の務

ということで今の自分には、本来のキリスト者とは仲裁する人、というイメージです。

『主の奴隷は言い争う必要はありません』(パウロ)

彼が言及した和解の務・・直接には神との和解のことだが、キリストを受け入れる人は無条件で他者をも受容するので言い争う必要がなくなる。

何かの「神」を信じているという告白や、その「神」に要求されている(と誰かが主張する)活動や犠牲に拠らず、人と和解するなら神と和解している(と勝手に思う)。

『あなた方が人の罪過を許すなら,あなた方の天の父もあなた方を許してくださるのです。 けれども,あなた方が人の罪過を許さないなら,あなた方の父もあなた方の罪過を許されないでしょう』

キリストが全世界の罪を負う犠牲になったというのなら、人(他者)の罪過を許す他に、罪にまみれた人間に何の条件があるというのか。順番を逆にしてはいけない。

『祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい』

人と和解することは「神をなだめる」宗教儀式に優先されるという・・自分の宗教活動をしたいなら構わないが、その前に考えること、優先することがあるだろうよと。

宗教戒律の実践を優先して反感を抱かせ、何を言われようが信教の自由や権利やらを盾に自己正当化してもっと反感を煽れ、排斥忌避という懲罰で人間関係を破壊して、まず我々の「神」と和解せよ、そうすればあなたの罪過も許して口をきいてやる、という順番は聖書の教えなのか。


かの実を食べてより、善悪と正誤の主張を巡る「かどうか」の言い争いに終わりはない。

そのどちらかに与して強く意見を主張することなく、ひたすら仲裁する人。
(強く意見を主張する“自由”を弾圧することを意味しない)

「和解を呼びかける(中立の)大使」とは、そこで意味を持つことだと思う。

ただの机上の理想論ですが、キリスト教とは宗教戒律や教義解釈の白黒じゃなく、そういう「夢」を伝える場所であってほしいとは思いますね。「どっちか」の側につきたがる、つかせたがる己(の意見や信条)を無にして和解を呼びかける・・そこまで滅私できる人いるのかな。

このブログはまだまだ「強く意見を主張する」側でいきます(笑)。

エホバの証人のような団体も無条件で受容してあげることが社会の寛容度を計るバロメーターになる、という人もいますが、聖書や宗教を信じている、その教えを実践していると主張する側が一方的に許され、受容され、尊重されることによって成り立つ関係とは・・皮肉ですね。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

No title

自分もこの点は同じように思いますね。
イエスが他の信仰を持っている人々を痛烈に批判している印象はないんですよね。
イエスが批判したのは独善的なパリサイ人ですよね。

ユダヤ人(パリサイ人)はモーセの擁護者を自負していましたが、当時もしモーセがいたら彼らを容認していたか? もちろん、しないでしょう。
同様にJWはイエスの擁護者を自負していますが、今日もしイエスがおられたら彼らを容認するか? もちろん・・・。

宗教って同じループを繰り返していくものなんでしょうか。
いや、宗教に限らず人間の活動全般に言えることかもしれませんね。

Re: No title

> スナフキンさん

コメントありがとうございます。

イエスがただのユダヤ教改革者や左翼的な体制批判者だったとも思いたくないですが、パリサイ人も身内の宗教の「垂木」として批判したのかもしれませんね。

JWに限らず、宗教とは「これが正しい」と思った1つをジャッジして「入る」「入らせる」ものだ、というループは繰り返されてますが、キリスト教とは罪びとたちの集まりで、布教するにしても「正しいから入らせる」ものではないのに、そこでイエスの教えとの乖離が生じている気がします。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。