神の名⑬

パウロはユダヤ人の神でもギリシャ人の神でもない、「わたしたちの父なる神と主なるキリスト」という表現を書簡冒頭で一貫して使っている。

そこも「父なるえほば」から改ざんされてるのかな。


ヘブライズムの神(ユダヤ人の神)・・感情を顕わにする、人と交渉を持つ人格神

ヘレニズムの神(ギリシャ人の神)・・霊的で超越する神、知られざる至高神、原父


そのどちらでもあり、どちらでもない、本来は超越する、否定的にしか知られえない不可知の神が、キリストにおいて不可知でなく、肯定的、直接的、知覚的でさえある。新約の「父」は「子」がいる時だけ何回か超然的な声を聞かせただけで、「子」以外の誰とも直接交渉は持っていない。

『今この時まで、あなた方は何一つわたしの名によって求めたことはありません』


パウロはユダヤ人の神とギリシャ人の神に区別や優劣をつけていないし、使徒17章に代表される彼の神観を引き継いだ初期教父たちもそうです。ローマ市民であり、ユダヤ教出身者でもあったパウロは、父なる神の救いの代理者、ただ一人の「主」とその「名」を広めることに生涯を懸けた。

神は人の手で作った神殿などには住まない、神はそうした無知の時代を見過ごしてきた(これをユダヤ人に言えば、ユダヤ教へのアンチテーゼと受け取られただろう)とギリシャ人には宣言する一方で、ユダヤ人信者側から反感を抱かれると、その求めに応じて再び神殿で儀式を行なっている。

彼は自分の言葉通り、ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法にある人には律法にある者のように、律法にない人には律法にない者のように語り、振る舞った。

その信念はWT勧誘トークの小手先テクニックではなく、もっと本質的なものだ。

ささいな宗教起源をぶよのように濃し取り、異教だ妥協だと騒ぐ人とは対照的です。


ユダヤ人の神かギリシャ人の神か、旧約の神か新約のイエスか、自由か原理か、啓示か理性か、史的か霊的か、進化か創造か、そもそも神を信じるか信じないか・・

あらゆる対立や区別という二者択一の彼岸(圏外)にある真理・・それを突き詰めるとWT協会どころかキリスト教自体が脱構築されてしまうが、一切が相対化して離散するのを繋ぎ止める楔、「天と地にあるもの」を再び集める神の管理(エフェソス1章)における最後のアダム・・

それが、パウロが広めたキリスト(教)なのではないかと思います。


『そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです』(新共同訳:コロサイの信徒への手紙3章)
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