求め続ける

聖書は人をハッピーにするどころか悲しませる。

ハッピーという主観的な感情と、聖書の幸い=恵まれた状態は同じではないと思います。

聖書を貫くのも、創造性と被造性の断絶、必然的な死の宣告に始まり、ユダヤ人の背反と離散、ヨブの絶望、ダビデの罪と苦悩、神に見捨てられたキリストの呻きと死、そのキリストを見捨てたペテロの慟哭、惨めな人間だと告白するパウロ、流刑にされた老人による終末の黙示・・

原罪だの裁きの日だの、そんなの知らなくても実存的には十分幸せになれる。むしろ強迫観念を煽って信者をコントロールする傾向が強いカルト的なメッセージは気が滅入る。

だれもが宗教的である必要はないと思います、自分含め。

探し続けること、問い続けること、それ自体が宗教(的)だとよく言われます。

求め続けよ、叩き続けよ、という教えは聖書にもある。

もう探すことはないと止まるのではなく、求め続ければ、また少し与えられる。キリスト教の場合、道はどれなんだ?という道探しや団体探しではなく、「道」を歩き続けること。

『多くの人は,答えを探す努力をやめてしまいました。なぜでしょうか。質問の答えは聖書にないのでしょうか。答えは難しすぎると思う人もいれば,質問するときまりの悪い思いをするのではないか,と心配する人もいます。そういう質問は宗教の指導者や教師に任せておくのが一番,という見方もあります。あなたはどう思われますか』(WT発行:聖書は実際に何を教えていますか)

断片的な聖句だけで聖書の教えは「分かった」つもりにされ、まだ分からないことは教団の指導者に任せておくのが一番、と自分で問うのをやめてしまったのはどっちなんだろう。

迂闊な質問をするときまりの悪い思いどころじゃ済まさない団体がよく書くよね。

嘆き悲しむことが恵まれた状態に至らせるのはなぜか。

神は打ち砕かれた霊を蔑まず(詩篇)、その霊がことばにならない呻きと共にわたしたちのために願い出てくれる(パウロ)と聖書にはあります。

ということは、聖書だの罪だの意に介さず、自由気ままにハッピーに生きる人間は地獄に堕ちるか、ハルマゲで殺されるのかな。仏教キリスト教問わずカルトが好きそうな言葉です。

どっちも聖書にそれらしきことは書いてあるが、キリストが人類の隠れた事柄を裁くとしても、それは人が借用して人に口にしていい言葉なんですかね。

信じる側の役割は、特定の団体に改宗する者だけが救われる、不信心者の人生など無意味で哀れだ、どうせハルマゲで殺される・・なんかヤなことを広めて回るものではないと願いたい。

ある司祭が強硬な進化論者から神などいない理由を延々と聞かされ、何か反論があるかと言われたところ、穏やかにこう答えたという。

「それは構わないよ。神は君を信じているのだから」

キリスト教も過去を省みながら常に変化の途上にあるようです。創造や神を信じるかどうかを議論するより、まず目の前にいる人の善意や良識を信じること、そこに宗教が果たす役割ではWT協会は相当遅れている、というか逆行しているのかもしれない。
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