不条理ゆえに

それがいいか悪いかは別にしてWTは字句的(肉的)解釈を優先させる。

聖書に含まれる数々の矛盾を、自分たちのフレームとなる解釈に合わせて、どっちかを字句通り、他方は字句通りじゃない、と合理的に使い分ける。両方を組み合わせているようで、自分たちに都合がいい字義解釈側に最も権威があると考えるので、それと合わない字句は比喩で片付ける。

一例を挙げると、啓示に出てくる「14万4千人」という数の字義的解釈が何よりも優先するので、「24人の長老」の方はそれ象徴数だから、という感じです。

それだけなら大したことないが、イエスがこの言葉を誰に対して語ったとか、イエスのたとえ話のこの登場人物は誰を表すとか、パウロの言葉は誰にあてはまるかとか、ヨハネ啓示にちょろっとしか出てこない、この「14万4千人」の字義的解釈に合わせてWT教理の大部分が作られている。

そういう文字や数字レベルでのつじつま合わせに拠らない、聖書や神の、より高次の「一体性」を模索したのが初期教父たちで、現在のキリスト教信仰にも受け継がれているようです。

ことば上は矛盾や不可解さがあることを別にムキになって否定しない。

たとえば、WTも新約各書の正典性を裏付けるのによく名前を挙げるテルトゥリアヌス。

言葉としてはトリニタス(三一)を最初に使ったラテン語教父ですよ。いいのかな。

「不条理ゆえに我信ず」という言葉でも知られる。

『テルトゥリアヌスは、その逆説的な、つまり一見矛盾しているように思える命題で最もよく知られていた、と言えるかもしれません。例えば、「神は小なればこそ、なおのこと偉大な方である」「神のみ子の死は不条理なるがゆえに、まさしく信じてしかるべきである」「イエスは葬られ、再び立ち上がられた。これは不可能であるがゆえに、確かな事実である」といった命題があります』
(も塔2002年5月15日号)

自己矛盾する言説を丸ごと受容する・・聖書にはそういう逆説的な言い回しは結構ある。

人の子なのに処女から生まれたとか、嘆き悲しむ人なのに幸いとか、生まれたのに初めからいるとか、子を見たのに父を見たとか、神なのに神と共にいたとか、そういう類のことです。

十字架が死刑具なのに崇敬の対象になるのも似ている。普通に理性で考えれば、WTが騒ぐまでもなく自分が敬愛する、しかも無実の人を処刑した電気イスや絞首台を崇める人はいない。

それらは人の理性を超える神的な変容の業だという人もいる。

神であれば、生命の誕生という自らが創造したはずの神秘的な理に反してさえ、処女からも子を産ませることができるように(それが史実か伝承かを人間側がジャッジするよりも、神がそのような存在として啓示されているということ)、この世で最も蔑まれ絶望の底で嘆き悲しむ人を、最も幸いな者へと高めることができるように、神の子を殺したはずの最も忌まわしい、しかも異教徒が使った死刑具さえ崇敬の対象に変容させることができるという。

WT側からすれば、理性で考えれば嫌悪と拒絶の理由となる要素が、そのままそっくり裏返って、「一切の考えにまさる」「一切の考えをとりこにする」神の超越性への崇敬の理由となっている。初期キリスト教史では、論理的に整合性を取ろうとする言説ほど支持されなかった。

どっちが「正しい」のかは知らないが、そりゃ永遠にかみ合わないよね。
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