同等の権威

『クリスチャンの聖書を構成する文書をヘブライ語聖書と同等の権威を持つ文書として認めていた』(WT洞察)

その基礎となる考えの一つが予型的解釈ではないかと思います。

一読すると不条理や不可解な記述が含まれている聖書。

律法の廃棄(成就)とモーセに固執するユダヤ人にキリスト者の自由を説いたパウロでさえ「聖書(当時の聖書、今でいう旧約)はすべて神の霊感を受けて書かれたもの」と宣言した。

「物質の人(魂の人)は神の事柄を受け入れません。
それは霊的に調べるべきことだからです」


これに準ずるのが、聖書には肉的/魂的解釈に加えて霊的解釈があり、聖書は霊感を受けて書かれたものなので、霊的な解釈が優先されるという考え。

たとえば、アブラハムに“kill me a son”と命じたyhwh。

試す前提とはいえ、非宗教的に読むと受け入れ難いと感じる人も多い。

yhwhの顕現体の一人が止めに来たとはいえ、アブラハムは殺す気だった。

クリスチャンはこれを、世を深く愛して自らの独り子を捧げることを惜しまなかった神の普遍の愛と「結びつける」。(そういう直接の適用は聖書にはない)

旧約に書いてあることを予型(タイプ)と考えることで、霊的、教訓的な解釈が可能になる。

一読して不条理に思える記述が、神の深遠で偉大な愛のタイプへと昇華する。

理性や感情(魂的)で受け入れ難く思えても、「霊が神の奥深い事柄までも究める」ことで聖書や神の一体性へと導かれる、というのがキリスト教信仰のベースにあるようです。

だから聖書にはっきり書いていないことでも、旧約と新約を合わせて読む人が、そこに何かの類型=タイプを読み取るのは別に間違ったことではないと思います。

別のよく知られた例ではキリスト生誕にまつわる逸話。

『彼女は男の子、初子を産み、これを布の帯でくるんで飼い葉おけの中に横たえた』
(ルカ2章)

キリスト教の伝統的解釈ではイザヤ1章3節との比較(これも新約筆者は誰も引用していない)で、天使がその降誕を称えた神の子が、家畜の餌やりに使われる飼い葉おけに横たえられたという記述は、その幼子が牛とろばに表されるユダヤ人と諸国民にとっての普遍的な救い主となることを暗示していたとする。相互参照が大好きWTも、クリスマスを嫌ってかその聖句は載せていない。

そういうタイポロジーはキリスト教伝統の名残だ影響だ、自分たちは聖書にはっきり書いていないことをタイプにしない、というなら有言実行してね。エルサレム滅亡がBCでいうとなんねんだ、というキリスト教的にはどうでもいい瑣末な議論以前に、ダニエル4章の「大きな木」がネブカドネザル以外の何かを表すとか、ダニエル書自体も、イエスもパウロも何も言ってないよね。


タイポロジーは旧約と新約を、陰画と陽画、影と実体のように表裏一体に結びつける。それを繋ぎ止める楔となるのが最後のアダム=キリストで、エイレナイオスをはじめとする護教家により、ローマ人の間でも新約と旧約が同等の権威を持つ文書とされる土台が護られた。

これが行き過ぎると、細かな数字や表現にさえ暗示的な意味があるのではないかと血眼になって探そうとする傾向や、WT協会のように結論ありきの何でもあり暴走解釈に走ってしまうが、もともとの役割はそういうことなんじゃないかと思います。

いつまでも肉的で偏狭な選民思想に浸り続ける某教団では教わりませんでしたね。
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