予型論

今回のも塔2015年3月15日号の一連の記事。

十人の処女とタラントのたとえが2013年7月15日号では触れられていなかったことはこのブログでも指摘していたが、「奴隷」の新解釈と整合させようと1年半頑張って考えた記事です。

もう細かなポイントにツッコむつもりもないが、サークル・クリスチャンと化している大部分の信者にはもうどうでもいい内容なのに対して、まともに読もうとする人にはその奇妙さ、強引さが際立つものとなったでしょう。

聖書に明確に書いてない限り、予型/体型的な意味は付さない、シンプルな教訓に焦点をあてると言いながら、もっていきたい結論ありきでまわりくどい説明に終始する。

聖書を読んで自分はこうありたいと思った、という教訓的な捉え方は人それぞれで、前はこう(自分は)思ったけど今読むと(自分は)こう感じる、というのも自由だと思います。

でもイエスはこの言葉をだれそれに限定して語ったとか、イエスはこう言外に意図していたとか、イエスがこうするのはいつだとか、自分の思い、ではなく主の思いや行動まで決めつけて代弁する、しかも以前に言い切ったことを何度も「調整」していいのかな。



今回フォーカスされた予型論(タイポロジー)について。

この号の付録記事にあるように、聖書の記述に予型を見つけようとする試みは、聖書の正典やキリスト教自体がまだ固まっていない初期教父の時代から始まっている。

この記事では馬鹿げた言葉遊びのような取り上げ方しかしていないが、自分が調べた限りではこのタイポロジーにはそれなりの役割があると思います。

その一つが、もともとユダヤ人ではなく(旧約を聖なる書物とはみなしていない)、諸国民への器だったパウロの宣教と彼の書簡によってダイレクトにキリスト教に改宗したローマ人たち(ユダヤ教への改宗を経由しない)の間で、ヘブライズム選民思想が色濃い旧約をどうみなすかという問題。

WT印刷物にも載っている有名な話では、旧約を聖なる書物とみなすどころか、そこで描かれている神は偏愛する不完全な神とまで主張したマルキオンとか。

彼はルカによる福音書とパウロ書簡を中心にした“聖書”を主張し、支持者を集めた。

種々の論敵に立ち向かう、初期キリスト教の護教家たちによって聖書の正典が固められ、マルキオン主義のような“異端”が排除された。WT洞察↓も、聖書正典を決めたのは宗教会議じゃない、すでに受け入れられていた書簡が目録として確認されただけ、と主張する時に彼らの名を挙げる。

『クリスチャン・ギリシャ語聖書の正典が2世紀の終わりまでに完結したことは疑いありませんし,イレナエウス,アレクサンドリアのクレメンス,およびテルトゥリアヌスなどの人々は,クリスチャンの聖書を構成する文書をヘブライ語聖書と同等の権威を持つ文書として認めていたことが知られています』

・・えーと、彼らのキリスト観にはまだ多様性があるものの、大筋としてはキリスト=ロゴス論 ⇒ ロゴスの受肉 ⇒ 三位一体の流れを作り発展させ、その礎を築いた人たちでもあるんですがね・・それはまた別の話ですが。

タイポロジーの話でした。
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